三千百八十八(朗詠のうた)正法像法末法の考へ方は貴重だが、年数固定と一回限りはいけない
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
四月二十二日(水)
仏法に、正法像法末法の考へ方がある。お釈迦様が亡くなったあとに、法がそのまま伝はる時代が正法、それを過ぎると形だけ残って像法、更に過ぎると威力を失って末法。この考へ方は貴重だ。
良寛和尚は詩(漢詩)で、釈尊の時代に一つだった仏法が後には分裂し、達磨大師が正しい仏法を伝へたが後に分裂し、道元和尚が日本に伝へたが寺請け制度で堕落したことを、嘆く。
この現象も、それぞれの分裂又は衰へ毎に、正法像法末法で説明できる。決して釈尊が亡くなってから、一回の現象ではない。良寛和尚の詩では、数回の正法像法末法があったことが分かる。
もしこれを、釈尊滅後の一回のみとすると、達磨和尚が来た後の分裂や、道元和尚が日本へ伝へた後の堕落が、無視されてしまふ。
像法は五百年後または千年後、末法はそれから更に千年後なので、道元和尚が帰国後、江戸時代の寺請けで堕落したとするのは年月が近過ぎる、と反論が出さうだ。昔は、膨大な年月が経過しても、世の中はまったく変化しなかった。ネアンデルタール人など旧人が生きたのは六十万年前から四万年前、ホモサピエンスなど新人は三十万年前から現在だ。
それに比べて、日本で云へば縄文時代以降は変化がどんどん大きくなる。それは、世界でも同じだ。そして今ではAIも現れた。それを考へれば、釈尊時代の五百年千年は、鎌倉時代の五十年だ。
四月二十三日(木)
鎌倉時代五十年は、応用が利く。ある教祖が亡くなったあと、分裂が続きこれは像法。まづ六人が分流し、そのうちの一人はこれまでも何回か取り上げたが、更に八本山に分裂した。
八本山のうち年代順に古い二ヶ寺は、どちらも後継争ひが起きた。一つは、隣接地に堂宇を立てて裁判沙汰が続いた。もう一ケ寺では、二代目が追ひ出され新たに分流が起きた。ここまでが、像法。
一つ目の寺では、片方が敗訴し房州の保田へ新たに寺を建て、勝訴したほうは血脈を言ひ出した。教祖から唯一後継に指名された血脈が今へ続く、と云ふのだ。これは、以上の分裂の歴史を無視したものだ。もし唯一後継者がゐるのなら、訴訟騒ぎは起きないし、もう一つの寺で後継争ひが起きたときに、裁定した筈だった。
血脈を言ひ出した時点で、末法に入った。
四月二十四日(金)
日本の仏法は宗派に依って、末法の存在が不要な所と、必要な所がある。曹洞宗は不要だが、布教の都合で用ゐることもある。例えば、総持寺開祖瑩山和尚は
仏法東漸して末法に至て我朝如来の正法を聞くこと、僅に五六十年なり
と述べた。尤もその解説について、総持寺の単頭(たんず、修行僧の指導監督職)の方が
「正法」という時期は、お釈迦さまがお亡くなりになられてから最初の五百年、あるいは千年とも言われます。(中略)「像法」の期間も、五百年あるいは千年と言われています。
これで安心した。五百年あるいは千年と云ふところに、絶対ではないことを示す。
末法の存在が必須の宗派は、教祖が定義したときの年数はそのままに、末法の中に、小末法を設ければよい。末法が不要の宗派は末法、必要な宗派でも小末法が必要な訳は、自分たちの堕落を反省する機会が、無くなってしまふ。
末の世は省みるため在るはずにせざるは末の末の世となる 救はれぬ世に(終)
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