三千百五十二(うた)短編物語(永禅和尚と石原莞爾、良寛和尚渡航と漢詩を語る)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
三月十六日(月)
第一章 はじめに
石原莞爾は、参謀本部作戦部長(正式名、第一部長)を左遷され、関東軍参謀副長のときに参謀長東条英機と衝突してからは閑職の、舞鶴要塞司令官、京都第十六師団留守師団長になり、東条英機が陸相になるや、予備役に編入された。
その後、京都の立命館大学国防学研究所の初代所長になるが、またも東條から迫害され、退職を余儀なくされた。
石原が縁の深い京都へ出掛けると、奈良から来た永禅和尚と、道端で偶然会った。そして、良寛和尚が清国へ渡航した話になった。
第二章 本色行脚僧
石原が、良寛和尚の「本色行脚僧」で始まる漢詩を挙げて、良寛和尚の渡航は本当の話だと云った。この詩は
本色(じき)の 行脚僧、
あに 悠々と存すべけんや。
瓶を携へて 本師を辞し、
特々として郷州を出づ。
朝(あした)に孤峰の頂を極め、
暮れに 玄海の流れを截(た)つ。
一言す 若し契(かな)はずんば、
この生誓って休せじ、と。
二人は、飯田利行「定本良寛詩集譚」の書籍を前に語った。石原は「玄海」の部分が、渡航を表すと主張した。
永禅和尚は、「定本良寛詩集譚」の解説を見ながら、玄海は玄界灘ではなく、深い海のことだと述べた。石原は、そのとほり、と云ひながら、国内で深い海は、駿河湾、富山湾、相模湾だと挙げた。良寛和尚が、越後から水島まで行くときに、海は無い。修行の為に国内を行脚しても、九州や四国へ渡るときに深くはない、と説明した。舞鶴要塞司令官時代に、米軍上陸阻止のため、水深と海流には詳しかった。
永禅和尚は、さうすると三行目の「本師」とは、飯田さんの解説では「国仙和尚とみるべきだが、ここでは出家の師、光照寺の玄乗破了和尚のことであろう」とあるが、やはり国仙和尚なのでせうね、と語った。
石原が、この本が出版されたのは平成元年で、その後、柳田聖山さんが、良寛和尚の渡航説を唱へ、飯田さんはそれに賛同し、玄海とは玄海灘のこと、と解釈を変へた、と語った。
永禅和尚は、自身が渡航したときは長崎からなので、玄海灘は通らないことを思ひ出した。
第三章 石原と漢詩
それにしても、と永禅和尚が感心した。石原さんは軍人なのに、漢詩に詳しいですね、と。実は石原には、自作の漢詩があった。
「独座」
深山窮谷絶人語 深山窮谷 人語を絶ち
一坐忘機対遠山 一坐機を忘れて 遠山に対す
莫説栄枯与生死 説く莫かれ 栄枯と生死を
春風淡蕩白雲間 春風は白雲の間を 淡蕩なり
石原の思想を理解した陸軍首脳は一人だけで、それは多田駿だった。多田は、たくさんの漢詩を残した。
石原の盟友板垣征四郎は、陸軍幼年学校以来の人脈だが、思想を理解した訳ではなかった。板垣にも、自作の漢詩があり、それを題材に能まで作られ、2025年8月15日に上演された。石原が云ふには、戦前は漢詩をたしなむ人が多く、それが戦後はアメリカ被れになってしまった。このままでは、国が亡びるかも知れない。これには、永禅和尚も同感だった。
戦前の人は漢詩や習字には堪能なるも 戦後には洗脳により東洋のものを軽蔑西洋過多に
反歌
昔から伝はるものは意義がある先祖伝来祖国を護る
第四章 平仄
永禅和尚が、良寛和尚の詩は平仄を無視するが、実際に中国で生活しないと、かう云ふことはできない、と語った。日本語は声調がないから、無視しても問題はないが、住んでみないとそのことに気付かない。これこそ、良寛和尚が渡航した最大の証拠であらう。
昔から川柳に云ふ 来て見ればさほどまでなし富士の山 行かざるときはそれが分からず
反歌
渡航して言葉を聞きて話すまで平仄無用分かることなし
良寛和尚自身、そのことを詩に書いた。
孰(たれ)か我が詩を詩なりと謂ふ、
我が詩は是れ詩に非ず。
我が詩の詩に非ざるを知りて、
始めて与(とも)に詩を謂ふ可し
この詩を読み、良寛和尚の詩は詩ではない、と短絡してはいけない。四行目に「詩を謂ふ可し」とある。(終)
「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百二十一)
「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百二十三)
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