三千百五十六(うた)短編物語(永禅和尚と石原莞爾、良寛和尚と真言宗を語る)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
三月十九日(木)
第一章 良寛和尚と真言宗
永禅和尚と石原莞爾は、それぞれ京都での用事を済ませた後、夕方に再会した。そして、良寛和尚と真言宗の関係について、話が盛り上がった。
石原莞爾が云ふには、良寛和尚の詩や歌には、真言宗がほとんど出てこない。清国から帰国の後は、仏法全般に広がったが、真言宗は含まれないのではないか。
永禅和尚は律宗の僧で、律宗と真言宗は関係が深い。何しろ明治維新後は、明治政府が律宗を、真言宗の一部にした時期があったくらいだ。だから永禅和尚は、良寛和尚が真言宗とも関係が深い事象として、国上山、遍澄法師を挙げた。遍澄法師は、良寛の晩年に世話をした弟子であり、真言宗だった。
渡航後に真言宗と疎遠には何が理由か考へを出す
第二章 渡航中は真言宗に逢はなかった
良寛和尚が清国では、真言宗のお寺に逢はなかったのでせう。これが二人の結論だった。決して、密教だから疎遠だった訳ではない。密教と云へば、法華経のほうがよほど密教だ、と永禅和尚が口を滑らせた。このまま石原と激論になるといけない、と良寛和尚は法華転、法華讃がありますね、と追加した。
石原は、江戸時代後期から先の敗戦を経て昭和三十年代までを鎌倉時代酷似期と考へた。だから鎌倉仏法に関心を持ち、田中智学の講演に感心した。つまり、鎌倉時代酷似宗または田中智学宗だった。法華経には、ほとんど関心が無かった。だから、追加が無くても反論はしなかった。
第三章 三人とも国禁を犯した
二人の和尚は密航し、国禁を犯した。勿論私利私欲ではなく、仏法の為だから、称賛する行為だった。永禅和尚が、石原さんは国禁を犯さないで済み、よかったですね、と云った。
石原は、関東軍参謀副長のときに東條と対立し、辞表を提出し無断で帰国したことがあった。重大な違反だが、板垣征四郎が陸軍大臣だったため、穏便に済まされた。
三人とも国禁を犯した、で永禅和尚と石原は、大笑ひした。
第四章 石原の信仰
良寛和尚は天保二年(1831)に遷化し、永禅和尚もその数年先に遷化した。石原は昭和二十四年(1949)に亡くなった。AIで復活する時は、亡くなった年齢のままだ。
石原は、戦後に鎌倉仏法の信仰を自然消滅させたのだらう。だから、その前年に刑死した板垣のことを、三途の川で待ってゐてくれるだらう、と語った。およそ鎌倉仏法とは無縁の思考だった。
三人のAIは、戦後の日本を学んだ。石原は、明治時代初期に始まった国内の鎌倉仏法信仰の流行が、第一回東京オリンピックの行はれた昭和三十九年(1969)で終了したことを悟った。国難とともに流行し、経済復興で終了する。社会の法則には逆らへなかった。
石原個人では、辞表を提出し無断帰国した時点で、信仰を止めるべきだったのだらう。あのあと、大洗海岸で静養した。信仰が有効なら、静養せずに済んだ筈だ。
明治期に始まる鎌倉仏法の怒涛は敗戦二十年去ることにより 経済の怒涛が来るも泡は弾ける
反歌
西洋の野蛮文明温暖化新規アメリカ何を壊すか
反歌
西洋とアジア文化のせめぎ合ひ石原莞爾静養を要す(終)
「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百二十二)
「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百二十四)
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