三千百四十九(朗詠のうた)短編物語(良寛和尚清国から帰国)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
三月十三日(金)
はじめに
良寛和尚が清国から帰国した後は、渡航前と明らかに違ってゐた。永禅和尚、良寛和尚、石原莞爾の三名の話は、尽きることがなかった。
とは云へ、渡航中の資料がなく、そのため良寛和尚の記憶は、この期間だけ復元できない。そのため三人の話は内容が二転三転し、最後にまとまった結論が、次の第一章からである。
第一章 道元和尚との関係
良寛和尚が、清国から長崎に帰国した。和尚が越後に戻った時は、厳正な比丘そのものであった。しかし、渡航前とは異なることが幾つもあった。
まづは、法華経を所持するやうになった。道元和尚も、晩年は法華経に傾倒したが、道元和尚の影響ではない。その根拠は、和尚の関心が渡航前に坐禅のみだった。
道元和尚と良寛和尚は共に、寧波の天童寺と、浙江省の天台山にも行ったのだらう。良寛和尚の場合は、寒山詩との関係からそのことが分かる。天台山は、法華経の本拠地であった。
天台大師智顗の三大著作は、摩訶止観、法華玄義、法華文句で、このうちの摩訶止観は止観(坐禅、瞑想)方法を記したものだ。しかし、道元和尚と良寛和尚は、摩訶止観の影響は受けなかった。これは、曹洞宗の禅が只管打坐なのに対し、摩訶止観は極めて複雑で、正反対だ。
その代はり、良寛和尚には法華転、法華讃の漢詩がある。智顗の法華玄義、法華文句に倣ったとも云へる。
第二章 念仏
良寛和尚が帰国の後は、それまでの坐禅一辺倒から、法華経、念仏、真言を、坐禅と並ぶ仏法と考へるやうになった。
円通寺は、もともと黄檗宗と関係があり、黄檗宗は念仏と坐禅の兼修であった。しかし良寛和尚の場合、念仏との関係はやはり帰国後である。清国で念仏宗の寺へ行ったかは不明だが、長崎で唐人屋敷と黄檗宗の関係から、黄檗宗経由で念仏に関心を持ったとも考へられる。
清国時代の宗派が、どう云ふ形態だったか不明だが、学派なら他宗にも出入りする僧侶もゐたことだらう。とは云へ、例へば禅宗の文献には禅のことしか書いてない。日本では、さう云ふ部分しか引用しないとも考へられる。
第三章 飲酒
酒を般若湯と呼ぶ習慣は、唐土から日本に伝はった。とは云へ、1024年に唐土で作られた書籍「酒符」には、般若湯の語を北の僧侶が用ゐたことが書いてある。
昔は、暖房が不十分だったから、寒い地方は酒で凌いだことだらう。日本でも、昭和四十年代までは部屋暖房が無かった。こたつ、火鉢、湯たんぽ、などが用ゐられた。
良寛和尚の飲酒は、円通寺時代からだった。住持が替はり飲酒が禁止されたことを嘆く詩もある。これは在寺中ではなく、旅から戻った時を詠った。
草枕外の国への旅立ちは出来ぬに生まれ旅立つは 空いた月日を皆それぞれに
反歌
江戸の世に空いた月日を持つ人へ後の世皆がそれぞれ思ふ(終)
「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百二十)
「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百二十二)
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