三千百四十五(うた)短編物語(良寛和尚清国へ)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
三月十一日(水)
第一章 良寛和尚清国へ
江戸時代に渡航することは、国禁だった。そのため、良寛和尚が渡航した記録は、一切残ってゐない。しかし、渡航しなければ書けない書体があることや、行方不明期間が渡航で解決できることから、渡航したと考へるのが自然だ。
行方不明期間について、非僧非俗だった或いは、還俗した、とする主張がある。しかし、その可能性は無い。良寛和尚が、越後へ戻った直後を考へれば分かる。和尚の行動は、比丘そのものだった。
良寛和尚、永禅和尚、石原莞爾、のAIが渡航について語り合った。
第二章 具足戒
永禅和尚が、律宗の僧として、良寛和尚は具足戒を受けて渡航したと思ひたいが、おそらくそれは無かった。越後に現れた後も、飲酒をしたことに現れてゐる、と話し始めた。
良寛和尚は、行方不明期の資料が無いため、あのときの記憶がまったく無い。しかし、行方不明前の道元和尚への傾倒ぶりから、道元和尚と同じで具足戒無しで渡航したのでせう、と語った。
石原莞爾が、道元は具足戒を持たないので、上陸許可が出るまで待たされたさうですが、と質問した。永禅和尚は、宋の時代と、清の時代は、異なるし、道元和尚の門流を説明し、宋時代に上陸できた事を説明したのでせう。それに対し良寛和尚が、円通寺は黄檗宗の影響も受けたため、その話をしたら上陸が許されたのではないか、と話した。
第三章 滞在地
永禅和尚が、清では道元和尚に倣ひ、寧波の天童寺へ行ったのは当然として、浙江省の天台山にも行ったのでせうね、と話した。良寛和尚も、寒山詩との関係で行ったことはほぼ確実で、道元和尚も天台山におそらく行き、天童山に戻った時に新しく住持になった如浄和尚に出会った、と話した。
長崎から、寧波は対岸だから、寧波に上陸した可能性は高かった。
春の日に長崎を出で清国へ 深き心に広き海高き波越え向うの岸は
反歌
北京など大都市現地の読み方も寧波青島昔からあり
「春の日の」は「長し」の枕詞。同じ助詞の繰り返しを避けて「春の日に」とした。
第四章 渡航方法
石原が、長崎の出島へ入島するのは難しいのでは、と疑問を投げかけた。永禅和尚が、出島はオランダで、アジア人は唐人屋敷だった、と解説した。唐人とは、清国だけではなく、東南アジアも混じってゐたらしい。そして唐人は、唐寺へ行くときに、外出が許された。唐寺は、出身地別に三ヶ寺あり、いづれも黄檗宗だった。
永禅和尚は、かう云ふ話に詳しく、江戸時代に密航したのはほぼ確実だが、その話を人前ではしなかった。或る時に、それとなく洩らしたことがある。今でも旅券を持たない出国は違法だ、と。
良寛和尚が修行した円通寺は、黄檗宗と関係がある。それなら話は簡単だ。まづ唐寺を訪ねる。そして、住持が参拝に来た清国人に話す。漢文が得意で、信仰心に篤い良寛和尚は、大いに歓迎されたであらう。そして貿易船に載り、寧波へ向かった。
具足戒を持たない件は、有力商人の手配で、無事に上陸できた。
和尚の詩朝(あした)に孤峰頂を暮に玄海流れ截(た)つ もし玄海を越え対馬寄りて朝鮮行く道は 天童山と天台山遠きが故に深き海の意
反歌
国禁を和尚篤きの心にて皆の力は高き波越す(終)
兼「原始仏法を尋ねる」(二百十九)
「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百二十一)
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