徳翁良高は
大乗寺の二十六世月舟宗胡についで、各地に法幢をたてたのち、岡山の西来寺に入ります。西来寺は、関西における曹洞第一の道場です。(中略)円通寺は、良高が晩年に退休する、謂わば隠居処ですけれども(中略)西来寺以上に大きく発展するわけです。
これで西来寺と円通寺の関係が分かった。
良高ははじめ黄檗(中略)に参じて(中略)月舟にも、同じ傾向があります。
(中略)近世の中国禅にふれて、中世日本の伝統が甦ります。月舟門下に、卍山道白が出て、(中略)道元に還ることを主張します。黄檗禅と一線を画するのです。(中略)そんな時代の問題を、真正面から引き受けたのが、良高という人です
これはどうか。卍山が、月舟と逆へ行くとは思へない。そもそも卍山はWikipediaによると
当時の曹洞宗では師僧から弟子に面授される法統(人法)の他に、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)があるとされ、両者の混乱から様々な弊害を生じていた。これに対し、道白らは宗祖道元が尊重した一師印証の面授嗣法(人法)のみを正統とするべきであると訴えた。
それなのに師匠と逆を行く筈が無い。
もろこしの新た流れが秋津洲 よどむ沼にも流れ起き 寺の中には新たな水が
反歌
人による伝へのほかに寺による伝へがあると乱れ生まれる
更に
隠元隆琦「黄檗清規」を手本として、乱れを生じていた宗派の規矩を整理、刷新を図った。(中略)一方で天桂伝尊などが、道元以来の宗規に拠らず他流(黄檗宗)の清規を当てはめ、実際の悟りの有無よりも嗣法の儀規面の整備を優先した道白らを「形式主義」と批判し、論争をよんだ。
これだと卍山こそ黄檗宗の影響下にある。
柳田さんの結論は
円通寺が清貧からずれている。(中略)沙門良寛の誕生は、そんな「清貧」にかさなるのです。
これだと、国仙も良寛とは異なることになる。多くの良寛愛好者が、国仙は正しかったとするのとは異なる。或いはこれが正しいが、良寛和尚は生涯師匠の恩は忘れなかった。
上の図で、宗竜や有願老人まで同系統なことには驚く。
良寛の周辺に、詩人肌のはみだしが、かなりいたことは確かです。(中略)「僧伽」とは、そんなはみだしを含むのです。布袋が先例です。何よりも師の国仙が(中略)見抜いています。みずから宗門を出てゆく良寛に、騰々任運の偈を与えて、玄透即中を後景に定めます。「円通寺」は、そんな良寛の選択の詩なのです。
これは正しいと思ふ。(終)
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