二千四百五十七(朗詠のうた)1.良寛和尚渡航を示す書体、2.柳田聖山「沙門良寛」 その二
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
八月二十五日(日)
二松学舎大学元教授で和島出身の源川進(彦峰、けんぽう)さんが何年か前に、良寛和尚の書法は清国に渡らなければ書けないものがある、と発表した。例へば「休」の字で木の下に横棒を書き、「匹」の上に点を書き、「美」の下が「大」でなく「火」と書いたものがある。これらは六朝時代の墓誌銘(瘞鶴銘か)に見られる書法で、日本に入ったのは明治以降だった。
インターネットで検索すると、新聞に載ったものをメモ書きされた方が一人ゐただけで、あとはこの記事がない。良寛和尚の地元でしか読めない自治体だより、公民館だよりなどに載ったのかも知れない。
筆からも良寛和尚清へ行くその裏付けを源川さんが


八月二十六日(月)
柳田聖山「沙門良寛」 の第五章「円通寺」には、円通寺開山であり西来寺二世の徳翁良高の門弟たちがたくさん出てくる。同書に下記の図が載るので、これを元に話を進めたい。


徳翁良高は
大乗寺の二十六世月舟宗胡についで、各地に法幢をたてたのち、岡山の西来寺に入ります。西来寺は、関西における曹洞第一の道場です。(中略)円通寺は、良高が晩年に退休する、謂わば隠居処ですけれども(中略)西来寺以上に大きく発展するわけです。

これで西来寺と円通寺の関係が分かった。
良高ははじめ黄檗(中略)に参じて(中略)月舟にも、同じ傾向があります。
(中略)近世の中国禅にふれて、中世日本の伝統が甦ります。月舟門下に、卍山道白が出て、(中略)道元に還ることを主張します。黄檗禅と一線を画するのです。(中略)そんな時代の問題を、真正面から引き受けたのが、良高という人です

これはどうか。卍山が、月舟と逆へ行くとは思へない。そもそも卍山はWikipediaによると
当時の曹洞宗では師僧から弟子に面授される法統(人法)の他に、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)があるとされ、両者の混乱から様々な弊害を生じていた。これに対し、道白らは宗祖道元が尊重した一師印証の面授嗣法(人法)のみを正統とするべきであると訴えた。

それなのに師匠と逆を行く筈が無い。
もろこしの新た流れが秋津洲 よどむ沼にも流れ起き 寺の中には新たな水が

反歌  人による伝へのほかに寺による伝へがあると乱れ生まれる
更に
隠元隆琦「黄檗清規」を手本として、乱れを生じていた宗派の規矩を整理、刷新を図った。(中略)一方で天桂伝尊などが、道元以来の宗規に拠らず他流(黄檗宗)の清規を当てはめ、実際の悟りの有無よりも嗣法の儀規面の整備を優先した道白らを「形式主義」と批判し、論争をよんだ。

これだと卍山こそ黄檗宗の影響下にある。
柳田さんの結論は
円通寺が清貧からずれている。(中略)沙門良寛の誕生は、そんな「清貧」にかさなるのです。

これだと、国仙も良寛とは異なることになる。多くの良寛愛好者が、国仙は正しかったとするのとは異なる。或いはこれが正しいが、良寛和尚は生涯師匠の恩は忘れなかった。
上の図で、宗竜や有願老人まで同系統なことには驚く。
良寛の周辺に、詩人肌のはみだしが、かなりいたことは確かです。(中略)「僧伽」とは、そんなはみだしを含むのです。布袋が先例です。何よりも師の国仙が(中略)見抜いています。みずから宗門を出てゆく良寛に、騰々任運の偈を与えて、玄透即中を後景に定めます。「円通寺」は、そんな良寛の選択の詩なのです。

これは正しいと思ふ。(終)

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