三千百(うた)三学と実践の関係、性格や能力の違ひと三学の変動
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
一月二十八日(水)
戒定慧の三学と、その実践は、固定ではない。戒律を守ることは戒であるとともに、定や慧の一部である。
止観(瞑想、坐禅)のうちの止は定、観は定と慧と、一般には云はれる。しかしこれも、止観は戒定慧のすべてを含む。
礼拝と経典学習は、慧と誰もが思ふ。しかし礼拝と経典学習も、戒定慧のすべてを含む。

国による傾向もある。戒律のタイ、瞑想のミャンマー、経典解釈のスリランカとは、昔から云はれる。
戒律のタイについて考察すると、戒律を守ることが修行のすべてだ、とさへ思はれる。戒律を守れば瞑想をやりたくなるし、経典を学習したくなる。つまりすべては含まれるのだが、戒律が第一だ。
ここで重要なことは、戒律を守れば神通力、つまり超能力を得ることだ。このことに気付かないと、単なる我慢大会になってしまふ。

一月二十九日(木)
曹洞宗は黙照禅(坐るのみ)なので定、臨済宗は看話禅(公案の答を考へる)なので慧と、まづは思はれる。一方で、黙照禅から慧を得るし、看話禅から定を完成させるから、二つを備へるとも云へる。そもそも、曹洞宗と臨済宗は達磨大師の末流なので、分かれる前は尚のこと両方を備へた。
とは云へ、坐禅のみで二つを兼ねると、修行側の負担が大きい。一枚の服で、夏と冬を暮らすやうなものだ。
実践に三つがありてそれぞれが三学備へ仏の路へ


一月三十日(金)
止観は、達磨大師が唐土へ来る前から存在した。
ここで一つ疑問なのは、経典に止観が載る事と、実際に実践するかどうかは、異なる。唐土では、経典学習と礼拝が主で、止観はこれらを行ふ前段階ではなかったか。
そこへ達磨大師が現れた。そして注目された。とは云へ、止観の比重が軽すぎる環境で注目されたのであり、その逆に、達磨大師の門流は坐禅過重になった。三学ではなく、坐禅の一学になった。
唐土は達磨大師が来る前に 三学既に知るとは云へ 止観をほかの補助として実践するの欠陥があり

反歌  唐土へ達磨大師が来て正すそれ故自身坐禅が過重

一月三十一日(土)
達磨大師の門流は当初、楞伽宗と呼ばれた。ここで思ひ出すのは、道元和尚が法華経を保ったのは、渡航が原因か。良寛和尚が法華経を保ったのも、或いは渡航が原因か。道元和尚に倣ったとも考へられるが、謎の空白期間の後は、道元和尚への傾倒は無くなる。
江戸末期良寛和尚渡航説空白期間謎は解決
(終)

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