三千百二十九(うた)最新の神仏論(神仏、初転法輪経、鈴木大拙続編)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
二月二十五日(水)
最新の神仏論としてまづ、宗教の語を使わはないことにした。宗教とは、科学万能の世の中に、非科学の意味を持つ。そのため、神仏論の語を使ふことにした。
神仏論の立場からキリスト教の神を考察すると、これは仏を重視した命名だった。神とは、動植物以外の生き物の総称である。創造主や天主かどうかは、キリスト教が気にすることで、仏法では気にしない。
宗教の語を、固定思想(宗教)に変へたこともあった。霊域に変更したこともあったが、これは宗教自体ではなく、宗教感の強い場所を指した。
旧安倍派によるカルト騒ぎのときは、次のやうに書いた。「固定思想を冷淡に感じるのは、反日カルトなど社会の変化が原因か、それとも固定思想を文化の一部とする小生の変化か。実は昔から固定思想は文化の一部と主張してきたから、小生の変化ではない。」
宗教は西洋近代名称にその前までは神学か 大和の国は神仏と仏道及び仏法を 今仏教と呼ぶことがほとんどなるも一つ戻さう
反歌
仏教は宗教内の一つにて仏道又は仏法が良し
二月二十六日(木)
二か月前に初転法輪経の心の寂静、神通、正覚、涅槃は、順番表現として重要だと書いた。これは、神通の部分に神仏論がある。1980年と今を比べて、先進国(地球を滅亡させる行為が先へ進む国)で大きく変はった事がある。それは、神仏を信じなくなった。
そして既成の神仏思想も、教義の唯物化が起きた。南伝の仏法でも、瞑想をして四禅や四向四果を目指す、だけだと、ラヂオ体操をすれば健康になる、と変はらない。
だからこれまで、周囲には神々が住み、新月と満月の日は重要だ、と主張してきた。初転法輪経の神通は、この考へと根底が同じである。
二月二十七日(金)
鈴木大拙全集第三巻に次の記述がある。
禅は悟をのけて意味をもたぬ(中略)そして悟と云へば、必ず頓であつて漸ではない。
ここに鈴木大拙の、狂信と狭心を見ることができる。人により、時により、これらは異なる。禅をして悟を得られなかったとしても、その努力は無駄にならない。悟りにも、頓のときと漸のときがある。そもそも、悟を目指して禅をすれば、それは執着になる。
それは、南伝と禅宗の違ひではないか、と思ふ人が多いことでせう。ここで、達磨和尚が釈尊から数へて第二十八代目とする禅宗の伝承を見よう。そこには、二十八人のうち何人が悟を得たか、と云ふ伝承は無い。全員が悟ったとする伝承もない。
次に第一代目迦葉は、釈尊が花をひねったのを見て、意味を悟り微笑んだ、とするのは後世の作り話だ。第二代目に阿南がゐる。原始仏法の教団が伝はったことが分かる。第十二代目に馬鳴、第十四代目に竜樹、第二十一代目に世親がゐる。三人を大乗の論者とすることが多いが、三人に南伝(及び北伝の非大乗)を批判する論調は無い。
達磨和尚第二十八代目説を、後世の作り話とすることもできる。しかし、そこまでして連続性を持たうとした先人たちの苦労を認めるべきだ。
唐土の宗派は学派 禅及び二十八代伝承を尊重しつつ 経典や読経などはほかより入る
反歌
具足戒保ち禅定目指す比丘 大乗及び従来を比べてみても違ひは有らず
反歌
仏法は止観やり方違ひのみ南伝と禅浄土真言(終)
「原始仏法を尋ねる」(二百十六)
兼「原始仏法を尋ねる」(二百十八)
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