三千三十七(うた)短編物語(AI参謀登場、AI和尚と平時の仏法を語る)
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十二月十四日(日)
第一章 AI参謀
二人のAI和尚に続いて、AI参謀が登場した。石原莞爾である。戦後の日本について、三人に話し合ってもらった。司会は、永禅和尚である。まづ石原莞爾に、生きてゐたら今でも国柱会を信仰するか尋ねた。
石原は、次のやうに語った。
伊勢神宮が戦勝祈願をしたのは、戦争中だったからだ。今、戦勝祈願を行なったら異常だ。同じやうに、戦前は西洋列強から植民地にされる虞があるので、国柱会に入った。今は国が滅んだのだから、国柱会ではなく、柱会だ。だから入らない。
現世利益は無くなったとのですか、と質問すると、
もともと現世利益は無かった。宗祖は佐渡へ流されたし、弟子の鏡忍房と信者の工藤吉隆は殺害された。私は膀胱がんだったが、平癒を祈ったことはない。
更に、国は亡んだのですか、と質問すると
終戦直後は、亡んではゐなかった。だから敗戦ではなく、終戦と呼んだ。しかし社会党の消滅と共に、日本は属領状態になった。亡んだのは、この時だ。
第二章 平時の宗教
平時の宗教に入り、良寛和尚は、性格がよくなることが宗教だと主張した。ほかの二人も賛同した。永禅和尚が、柱会はどうですかと云ひ、三人で大笑ひした。柱会は、変な名称である。石原は
宗祖は、ラヂオ体操やストレッチを禁止しなかった、鎌倉時代には無かったが。坐禅はラヂオ体操、経行(坐禅の後に歩く)はストレッチとして行へば、問題が無い。そもそも天台大師の名は宗祖の曼荼羅に書かれてゐるが、天台大師には摩訶止観と云ふ大著がある。法華玄義、法華文句とともに、三部作と呼ばれる。それ以外にも、小止観と云ふ著作がある。止観とは、坐禅の事である。
ここで永禅和尚が、曼荼羅には天台大師の隣に伝教大師が書いてあるが、野衲(田舎の僧、自身を謙遜する言ひ方)と良寛和尚は、伝教大師がどうも合はない、と遠慮がちに云った。すると石原から、予想外の言葉が返った。
第三章 国内で元寇に特化
宗祖は、海外に行ったことがない。天台大師と伝教大師は、宗祖から見てほぼ同義語だった。伝教大師は新たに戒壇を勅許されたが、結果として戒律破戒になった。それは僧兵と焼き討ちで明らかになる。
宗祖の教へは、鎌倉時代と、江戸時代に黒船が現れた時から昭和二十年までの、元寇の時代に対応した教へだったのでせう。
石原は、若手士官としてドイツに留学し、中堅時代には満洲で二回勤務した。国際派である。二人の和尚も、渡航したのではないかと噂されたが、国禁に違反するので聴く訳にゆかず、真義不明だった。
国際派三人からは国内の危なき橋にたくさん気付く
第四章 イスラム教
ここで、性格がよくなることが宗教、の話に戻った。テロが問題になり、イスラム教は性格が悪くなる、と永禅和尚が云った。石原と良寛和尚は、西洋列強が植民地にしたり、ユダヤ人を欧州の邪魔者としてイスラエルを建国したり、その後も西洋のやり方を押し付けることが原因、と説明した。
石原さんと良寛和尚は話が合ひますね、と向けると、石原は次の話をした。
石原が参謀本部第一(作戦)部長だったときの参謀次長は、多田駿だった。多田駿は良寛和尚の信奉者だった。
この話は、良寛和尚も初耳だった。多田は、石原の思想を唯一理解する人物、と評された。板垣は石原と仲がよかったが、それは仙台幼年学校や陸軍大学時代の繋がりだった。
多田は、陸軍三長官会議で陸相に内定したが、突然取り消された。其の時の次に東條英機が出て来る。石原の顔が曇った。東條と仲が悪かったからではない。東條が国を亡ぼしたからだった。正しく云へば、この時は敗戦だけで、亡んだのはそのずっと後だった。
敗戦を終戦とまで名を変へて祖国存続願ふとも マッカーサーの洗脳が効きすぎその後亡国となる
反歌
社会党消滅英語公用語LGBT西洋猿真似
英語公用語は失敗したが、NHKが突然キックバックを叫ぶなど、国語破壊の悪質な企みには監視が必要だ。(終)
兼(社会の復活を、その五百六十七)へ
(社会の復活を、その五百六十九)へ
メニューへ戻る
うた(一千五百七十六)へ
うた(一千五百七十八)へ