二千九百九十四(うた)NHK出版の駄本を批判、佐々木閑「仏教は、いかにして多様化したか 部派仏教の成立
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月十五日(土)
佐々木閑「仏教は、いかにして多様化したか 部派仏教の成立」は、とんでもない駄本である。題を読めば、多様化した仏法のなかで特に部派仏法の多様化が原因として、その解説が中心なのだらう。
ところが読んでみると、百六十七頁中に、部派仏法の多様化は第一章の三十六頁だけで、第二章の二十八頁は仏法が生まれた背景で、ここに関しては既に世界中の膨大な数の人たちが膨大な数の著書を残した。今さら佐々木閑の本は読みたくないと云ふ人がほとんどだらう。
第三章と第四章の八十五頁は大乗仏法の説明だ。それなら「部派仏教の成立」なんて題を入れてはいけない。売れればよいとするNHK出版が悪いとみた。或いは佐々木閑が悪いかも知れない。
放送と関係あると思はせて 低質な本出版は名を流用の行為にて 宗教放送既に悪くも

反歌  NHKその名に於いて悪質な本を出版してはいけない
本文に入り、根本分裂の原因になった十事問題について
インドの東の(中略)ヴェーサーリーという町の仏教僧団が(中略)水を張った鉢を置いて「この水の中へ金銭を入れてください」と指示し(中略)そのときそこに、インドの西の地方から(中略)ヤサという比丘が来ていました。

そして律蔵に違反すると批判した。このことについて佐々木閑は、規則が禁じたのは貴金属であり、金銭ではないとして
微妙な見解の相違が生まれます。

とする。佐々木はとんでもない曲解者である。律蔵に書かれた理由は、贅沢を禁止することであり、邪心の原因となる金銭を受け取らないのは当然だ。これを「微妙な見解」とは驚く。
金銭に貴き金属含まれるこの時代には紙幣まだ無し

これ以外にも九つあり、十事問題について、四人づつ代表を出して決着をつけることになった。ところが佐々木はここでも
実はこの会議の前に裏工作がありました。(中略)根回しによってヤサ派に付くことになっていて、(中略)勝つことがあらかじめ決まっていたのです。

律蔵のこの話には、十事問題についてだけで、分裂については出て来ない。一方で、スリランカの仏法史を記した「島史」にはこのあと、分裂の話が出て来る。
さて律蔵は、六つが現在残ってゐる。そのうち大衆部は一つだけで、そこにはヤサの提案でヴェーサーリーに七百人が集まり、新たに律を制定した、とある。
律の解釈を巡る論争で、決着が付いたのだから、新たに律を作るのは変だ。これについて佐々木は
ここから少しだけ、私の説をご紹介します。

と云ひながら、十七頁も費やす。その内容は
「たがいに違った考えを主張するのは構わないから、ともかく行事だけは一緒にやらねばならない。行事を一緒にやっている限りは、破僧ではない」

佐々木は、二十部がインド中に広まったと考へたらしいが、実際には或る地方は有部と法蔵部、別の地域は化地部、など地域ごとに一つ乃至三つ程度があった。そもそも仏法は、人によって止観の最適なやり方が異なる。現在の南伝仏法は、マハーヴィハーラ派しか存在しないが、そこにも止観のやり方は、いろいろある。
第二章は最後に
部派分裂の経過については(中略)確実なことはわかっておらず、多くのことが未解明のままなのです。

つまり第一章は、未解明なのに思ひ付きを書いたことが分かってしまった。

第三章から大乗仏法に入るが、冒頭から二つの重大な誤りがある。
「釈迦の仏教」では、仏道修行者として特別な修行を積んだ者だけが悟りを開く(中略)のに対し、大乗仏教では、俗世で日常生活を送りながらでも悟りに近づくことができるした点です。

問題点を赤色にした。悟りを開くのと、悟りに近づくのでは、異なるではないか。「釈迦の仏教」では、出家をしないと悟りを開けないが、在家でも近づくことはできる。大乗の専売特許ではない。二つ目は
「釈迦の仏教」では(中略)到達できるのは「阿羅漢」までとされていましたが、大乗仏教では(中略)「ブッダ」にまで到達できると説いたことです。

佐々木は、とんでもない初心者である。南伝仏法では「ナモタッサ バカワト アラハト サンマ サンブッダッサ」を三唱する。意味は、阿羅漢であり、完全に悟られた方である、仏陀に帰依します」。阿羅漢とは、仏陀への最大尊敬語である。(終)

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