二百八十一(丙)、転身したアナウンサは現代が生んだ発声異常者である(小宮山洋子批判、その五)

平成二十四年
七月十五日(日)「職業による発声」
職業により発声法が異なる。能役者や歌舞伎役者は独特の発生をするし、洋楽の歌手も独特の発声をする。庶民も同じである。普段大きな声を出す職業はだみ声になる。だから昭和四五年あたりまでは下町声、山の手声があつた。
アナウンサはマイクに声を乗せるだけを目的とする発声をする。或るアナウンサが20年くらい前だらうか。アナウンサと一般の人は発音がまつたく異なると言つていたが、アナウンサが優れてゐるのでも、アナウンサが正しいのでもない。マイクに声を乗せるためにさういふ発声をするだけである。
ロープウエイのガイドが抑揚をつけず観光案内をするのと変はらない。アナウンサはさういふ発声なのである。

七月十六日(月)「不均衡の均衡化」
何か新しい出来事があると不均衡が発生する。すると少数の得をする者と、多数の損をする者が現れ、長い年月を掛けて均衡化する。放送の出現はまさに新しい出来事である。アナウンサーの出現も新しい出来事である。ラジオの時代は地道なアナウンサーが多かつたが、テレビの出現とともにタレント化した。
希望者が殺到し、だから民間では契約社員化が進んだ。NHKは役所の体質だから今でも正社員なのだらう。均衡点としては契約社員を更に超へて個人契約化である。或いはテレビに顔を出さず声だけの裏方に徹し、歌合戦の司会などはタレントに任せるべきだ。

七月十七日(火)「白痴化したのは国民ではなくてテレビ局だつた」
昭和三二年に一億総白痴といふ言葉がはやつた。まだテレビ受像機が一般には普及してゐなかつたが、将来を予測したその発言は見事である。それでも昭和48年までは今のテレビ朝日は日本教育テレビ、テレビ東京は日本科学技術振興財団テレビであつた。NHKにも教育テレビがあつたから、当時七つのチヤンネルのうちの三つが教育若しくは科学技術であつた。それでも国民の多くは一億総白痴といふ言葉を支持した。
当時は今よりはるかに良質だつた。「8時だよ、全員集合」といふ番組があつた。当時はPTAの選定する子供に見せたくない番組の上位を占めたが、今見るとそれほど悪くはない。加藤茶がテーマソングの合の手に「勉強やつたか」「歯を磨けよ」と教育的言辞をいふくらいだし、「聞け万国の労働者」を歌ひながらのこぎりを引く場面もあつた。今は全労協さへ「聞け万国の労働者」は歌はない。
それほど今はテレビ番組が悪くなつた。国民ではなくテレビ局が白痴化した。だから当時は宮田輝や高橋圭三が参議院全国区に出馬するのを多くの国民が投票はしないまでも温かく見守つた。今はいつたい何だ。テレビ局自身が白痴化したのだから候補者を出してはいけない。

七月十八日(水)「マイクの要らない世の中を」
マイクを使ひ大勢に向ひ話をする。これは人類の歴史でも長い間なかつた傲慢な行為である。マイクといふつまらぬ道具を使ふから下手な歌手や軽薄な芸能人やアナウンサーと称するくだらぬ職業が出現する。
日本では選挙の時に名前だけ叫び続ける宣伝カーが多い。これはずいぶん国民を馬鹿にした行為だ。それといふのもマイクといふがらくたがあるからだ。マイクは放送を除き禁止すべきだ。放送には館内放送、車内放送、ラヂオ放送、テレビ放送がある。かつては有線放送もあつたが加入電話の普及と農村の過疎化で少なくなつた。

七月十九日(木)「お笑ひ芸人はテレビが生んだ一時的な繁栄物」
オリンピツクにお笑ひ芸人がカンボジア代表として出場しようとした。これはよくない。出場しなくてよかつた。もし出場したらオリンピツクを目指して毎日練習を重ねる世界中の厖大な数の選手に失礼である。なぜ日本国内でさういふ議論がおきないのか。体育関係の団体の幹部がなぜ黙つてゐるのか不思議である。相手がテレビの出演者だからと黙つてはいけない。体育団体は事勿れ主義と、利権と、文部科学省の天下りと、副会長、理事などの名誉欲に陥つてゐるのではないのか。

コンピユータの展示会で或るソフトウエア会社が、吉本所属のお笑ひ芸人をブースの特設ステージに呼んだ。特設ステージは10人ほどで満員になる。そこに30人くらい集まつた。私もたまたま通りかかつたので見た。もつと前に進んでくださいといふので出演者の50cmくらい前の2列目で見た。10分ほど見たがどこが面白いのかまつたく判らなかつた。
テレビの出現とともに激減したのが浪曲である。かつてはラヂオの電波に乗つて日本中に広まつた。浪曲は日本音楽の進化系である。もつと注目すべきだ。西洋音楽が現代まで発展したように、日本音楽では浪曲が発展の一つである。まづはドキユメンタリーや紀行物のバツクグラウンド音楽に浪曲を採用してもらふよう放送局や放送作家に働きかけるべきだ。浪曲のテンポとテレビは合はない。だからといつて浪曲師の出演中に画面が切り替はるのは嫌だらう。自分の放映時間だと思ふからいけない。まづはバツクグラウンドからテレビに復活すべきだ。

お笑ひ芸人と同じことがテレビ歌手にも言へる。かつては声量のある本格派ばかりだつたが、マイクに音を乗せるだけが得意の連中が大挙して現れた。アナウンサーも同じである。マイクに声を乗せるのが得意なだけである。技術の進歩とともにその非平衡状態に表れた職種で、平衡に達するとともに消滅する。永続は不可能である。

七月二十日(金)「小宮山洋子の記者会見では政治家失格」
小宮山の大臣就任の厚労省での記者会見と、一ヶ月後に日本記者クラブで行つた記者会見を見た。改めて小宮山洋子は政治家失格だと判つた。政治家たるもの自分が先頭に立つて世の中をよくしなくてはいけない。小宮山の会見はいかにも官僚の作文を上品ぶつて読んだといふ感じだ。いつそうのこと「次のニユースです。事務次官は子ども手当てについて次のように発表しました。」と前置きしてから原稿を読み始めたらどうか。
民主党の女性議員では「国民の生活が第一」に続き、三人が離党し亀井議員と新党を作つた。これは立派である。それに対して駄目な女性議員の特徴は男女比率に言及することだ。国民はよい政治をしてもらいたいと願ふ。そのために女性比率が高くても男性比率が高くても一向に構はない。ところが駄目な政治屋の特徴は男女比率を取り上げ、つまりは自分の上昇志向に利用する。
日本記者クラブの会見では、司会者が「野田内閣でも極めて注目度が高い」と紹介すると満面の笑みを浮かべて「さあ?」と首を左右に傾ける。そんなテレビのお笑い芸人みたいなことをしてはいけない。小宮山は大臣になつたばかりだ。注目度が高いか低いかはこれから国民が決める。ここにまづマスコミの傲慢がある。
次に小宮山が自己紹介を始め、記者クラブの女性企画員を増やさうといふことになり、一人から四人になり、そのうちの一人が自分だから記者クラブは古巣だと話した。女性が何人に増へたといふことは関係がない。自分が企画員になつて此のようなことをした。さういふ発表をしなくてはいけない。如何にも男女比率を口実に企画員になりましたと言つてゐるようで嫌な印象を周囲に与へた。小宮山個人の成功を喜ぶ女性はほとんどゐない筈である。

駄目な政治屋の特徴は「本部を作つた。自分が本部長になつた。審議会を作つた」。さういふことを自慢げに発表する。震災直後の菅直人がよい例である。一〇年ほど前まではハコ物ばかりを作る駄目な政治屋が自民党に多かつたが、菅の場合は組織のハコ物である。そして小宮山は菅にそつくりである。
社会保障一体改革の推進本部を作つた。自分が本部長で、副大臣と政務官が本部長代理、事務四役の事務次官、厚生労働審議官、官房長、総括審議官が副本部長、そして、と続く。これは新設の組織ではなく厚生労働省そのものである。新設の組織とは、小宮山が本部長で鳩山氏が副本部長。といふか前首相(菅直人は除歴)を副本部長では失礼だから本部長、小宮山は副本部長に格下げ、小沢氏が事務局長。これなら新しい組織だが今回は違ふ。今回は厚労省の組織で対応すれば済む話である。おまけをしても厚労省にプロジェクトチームを作れば済む話である。それを長々と記者会見で話す。大臣失格である。

七月二十一日(土)「『この国』といふ政治屋にはろくなのがゐない」
最近奇妙な政治屋が現れた。日本のことを「この国」といふ連中である。「日本」「我が国」と言へばよいではないか。小宮山もその一人である。
菅が首相のときに小宮山は副大臣だつた。そのときの自慢話で「震災で孤児や遺児の数の把握。いつもこの国は子供のことがあとまわしになるのですが」と発言した。
大臣になつてからの話では、幼稚園と保育園を統合することについて「この国はずっと子供の予算が少なすぎましたので」と発言した。幼稚園と保育園の統合にはもう一つ悪質な話が続く。「二〇一〇年半ばと言われる消費税を上げることを伴わないと、両方やるところにインセンテイブを働かせようと思っていますので、両方やるところに働く人の給料を上げるだとか」と発言してゐる。増税しないとギリシャみたいになるとさんざん騒いだのが財務省、菅、与謝野、野田である。増税分が給料を上げるだめだつたとは内閣不一致である。野田は自分を罷免するか小宮山を罷免すべきだ。自分の足を食べるのはタコだが、自分を罷免するどじようなんて人気がでさうである。もつと人気が出るのは罷免された後だが。
それにしても、子供のことがあとまわしになるだとか子供の予算が少なすぎたといふのは長期の自民党政権の弊害である。なぜそのことを批判しないのか。小宮山は民主主義の根幹である与野党交代を判つてゐない。菅と野田も判つてゐない。野球と同じである。攻撃側に回つたらバツターボツクスで攻撃しなくてはいけないし、チエンジしたら守備位置で攻撃しなくてはいけない。八百長試合は駄目である。(完)


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