二千八百四(うた)石川逸子「道昭 三蔵法師から禅を直伝された僧の生涯」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月十四日(土)
図書館から借りた本の中には、石川逸子さんの物語「道昭」もあり、読み始めた。ところが難関が続出した。
- 石川さんは、中学校教員の傍ら、詩を作る。物語は「道昭」の一つだけだ。この物語は、冗長すぎる。これが、最初の二頁を読んだ感想だった。
- 奥付けを見ると、石川さんは
主な著書に、『日本軍「慰安婦」にされた少女たち』(岩波ジュニア新書・2013年)(以下略)
これは駄目だ、とまづ思った。日本の保守対革新は、75(昭和五十)年迄は革新が押してゐた。この頃から日本の貿易黒字が加速し、ベトナム戦争は共産側が勝利したのに、ポルポトの虐殺や文化大革命の失敗で、革新側は敗退するやうになった。
小生自身は、革新側が敗退しても、85年のニュー社会党の前までは形式的には社会党を支持し、実際は共産党に投票した。95年の村山富市以降は反社会党になり、新進党や民主党などを支持した。2010年の菅直人以降は、反民主党になった。その後は、支持政党が無い状態が続いた。民主党を分別された人たちが2017年に立民党を結成するとこれを支持しながら、維新の会なども支持した。
そんな小生から見ると、2013年に『日本軍「慰安婦」にされた少女たち』を出版したのは、単純唯物論であり、リベラルだ。
- 石川逸子さんを検索するとWikipediaに、
1982年から29年間にわたって、季刊ミニコミ誌「ヒロシマ・ナガサキを考える」全100号を発行した。原爆や従軍慰安婦問題をテーマとするなど、社会派の作風。
西田敏行、山田洋次、黒柳徹子らと共に「平和のための戦争展」(日本中国友好協会主催)の呼びかけ人を務めている。
とある。戦争に反対することは正しい。次に、欧米の植民地化戦争に巻き込まれたアジアが、どうすべきだったかは難しい。「ヒロシマ・ナガサキを考える」結果として、日本が悪くて米英仏蘭が正しかった、では話にならない。石川さんは、日中友好協会主催の呼びかけ人なので、さうではないと信じたい。
自民対社会党の対立が 共産党や民社党含め複雑 冷戦後共産党まで単純の唯物論に堕す虞あり
反歌
単純の唯物論に反対し宗教民族左派で合作
- 小説なので、どこまで本当なのか。
これらを踏まへ読み始めたが、蘇我と物部の争ひや、高句麗や百済の話などを読まず通過し、四七二頁中の九七頁から、頁読み(一頁のうち数行を読む)で進んだ。途中で何頁も読まない部分を含みながら。
一一二頁から「先住民族の歌語り」の章だ。本文に
船上の道昭に、いま一つの出会いがあった、と想像してみる。
とあるやうに、まったくの作り話である。この章の悪いところは、民族の概念は西洋発狂人の考へたものである。少し前までの日本でもさうだが、日本語でも少し離れると通じない。つまり言葉は通じなくても、他民族と考へてはいけない。
とは云へ、通信や交通の発展した今では、地方語の統一が進み、少数民族を保護する為に、民族の概念が必要になった。道昭の時代は、まだ民族の概念が不要である。
兼(歴史の流れの復活を、その五百四十一)へ
----------------ここまで(歴史の流れの復活を、その五百四十二)------------------
小説はこの先、作り話だらけだ。
------------------------ここから「初期仏法を尋ねる」(百四十九)---------------
石川さんに感心したのは、サンスクリット語に対し、口語をパーリ語と呼んだことだ.。現存のパーリ語は、ブッダの話した準マガダ方言と比べて、西方の方言が入る。中村元さんは西方の方言を称してパーリ語とする。しかし口語をパーリ語としたのは正解だ。
批判すべきは、後の章で玄奘が道昭に「毎朝の座禅だけは欠かさずにな」と云ったことと、その次の章で道昭が南無阿弥陀仏二回と般若心経を唱へた。この二つは変だ。まづ、坐禅だけ欠かさなければよいと云ふものではない。次に、南無阿弥陀仏と般若心経は、他力と自力だからいっしょには唱へない。
ずっと後の帰国後に三七三頁では
恵釈は言った。
「道昭は、<禅>という仏道を修めてきています。(中略)ご用を務める以外は、一所不在で過ごすことがあります(以下略)
柳田聖山さんの引用にあるやうに当時の唐は、玄奘法師の経論重視と、禅宗の実践佛教の流れがあった。そして前者も禅は行った。つまり道昭だけが禅を修めて帰国したのではない。二番目に禅は旅とは無関係だ。良寛和尚のやうに、禅宗を飛び出して旅に出た僧はゐるが。
結局、この本は仏法を知らない人の作った物語に留まった。(終)
「初期仏法を尋ねる」(百四十八)
「初期仏法を尋ねる」(百五十)
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