二千七百九十四(うた)三友量順「玄奘」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月八日(日)
今までの本を返却し、図書館から新たに五冊を借りた。一冊目は三友量順「玄奘」で、冒頭から三行目の
中国人たちの現世主義的(アザー・ワールドリー)な人生観と、インド人たちの来世主義的(アザー・ワールドリー)な人生観(以下略)
こんな無教養なカタカナ語を冒頭から使ふやうでは、読む意味は無いだらう。そこを何とか許容して読み進むと
インド的な「空」と中国的な「有」との隔離を埋めることも玄奘三蔵の西域求法の大きな目的であった。
これなら合格である。次の文章は、賛成を青、反対を赤、にした。
「方便」(中略)はもともと「巧みな・手段」(括弧内略)を意味する。仏典では方便は、真実に至らしめる手段をいう。大乗経典の『法華経』には「三乗方便一乗真実」という言葉があって、小乗(声聞・縁覚)や大乗(菩薩)の教えは、真実の仏陀の乗り物に導くための手段であることを説き、(中略)小乗や大乗という対立を超えたところに真の仏教精神があるというわけである。
「大乗経典の『法華経』」では、従来と大乗の対立を越えてはゐない。また声聞は仏陀の教へに従った人たちだから、それを越えてはいけないが、仏陀の時代から時間が経つと、文明の変化(他宗教の影響や社会の変化)で、大乗が現れたのではないか。
西暦一世紀に中国に伝わった仏教は初め道教と一緒に信仰された。この時代はインドにおける大乗仏教の出現の時代と重なる。西北インドで仏像が出現が出現するのも一世紀の後半から二世紀初頭にかけてのことである。
なるほど大乗仏法の出現より、仏像の出現が遅いのは、他宗教の影響でまづ大乗が現れ、次に仏像が現れたと考へられる。
仏像の出現の要因として次に挙げられるものが、ストゥーパ(仏塔)崇拝(中略)の具象化である。(中略)やがて在家の人々だけではなく出家の人々にも取り入れられていく(以下略)
それまでは
ストゥーパに供養された供物は(中略)出家の教団はこれを用いるべきではないという厳格な規則が、部派仏教の中から現れてきた。(中略)ストゥーパに礼拝をしても利益の少ないことを述べ、僧に施しをすることの功徳を強調している。
これは仏陀時代からの、正しい在り方である。さてチラス遺跡について、現れた仏像について
端坐した姿が仏陀ではなく「菩薩」と標されているのは、マトゥラーで最初期に現れた仏像が菩薩像と銘されていた(中略)ほどなく釈尊そのものと標されている。
仏像を拝することは大乗の影響とするおそらくは正しきことに 従来と大乗共に影響し合ふ
反歌
三蔵があるは大乗論蔵に分ければ皆が賛成をする
六月九日(月)
インドでは聖典は暗唱にって伝えられた。(中略)それ自体が聖なるものであるから文字に書き写すことをしなかった。
ところが
大乗仏教は初期の経典を見ると書写の功徳を強調している。そして教本を仏陀と見做して礼拝供養すべきことを説いている。
そして
初期大乗経典の『法華経』には、経本のあるところには舎利を納めたストゥーパではなくチャイティヤ(霊搭)が建立されるべきであり、そこには(中略)実際のの舎利を納められる必要はないとする。
法華経を初期大乗と分けるとき 智顗の学説間違ひと認めすべてを論蔵とする
反歌
南伝もスッタニパータダンマパダ経蔵その他論蔵もよし
大乗のすべての経典を論蔵にいれる。南伝もスッタニパータとダンマパダ以外はすべて論蔵に入れる。これで従来も大乗も一両損で、皆が千両得になる。
インドでのサンスクリット復興運動は四世紀のグブタ王朝になってからである。(中略)古来のバラモン教が国教とされ、かれらの用語であるサンスクリット語が公用語となった。仏典のサンスクリット語化はおそらくこの時代であったであろう。
中国の仏法について
最初に経典を翻訳したのは安息(アルサケス、パルティア)出身の安世高である。二世紀の中程に(中略)主に小乗経典を翻訳している。続いて月氏(クシャーナ)出身の(中略)大乗経典を翻訳している。古訳の代表者である竺法護は敦煌の出身で、彼は三世紀の後半から四世紀の初頭にかけて重要な大乗経典を訳出している。次の旧訳の(中略)鳩摩羅什(中略)は四世紀の後半から五世紀初頭にかけてである。
そのため
最初期のものほどサンスクリット語ではなく俗語(中略)可能性が高い。
パーリ語を俗語と云ふは賞讃語梵語化前の仏陀の言葉
六月九日(月)その二
第二章に入り
中国に初め伝えられた仏教は道教とともに信奉され(中略)道安(三一二~三八五)によって格義仏教であると批判されたが、(中略)着衣にも変容を生ぜしめた。
----------------ここから(歴史の流れの復活を、その五百四十一)------------------
三友量順さんと小生で、大きく意見が異なるものがある。
インドの輪廻思想は循環的な思考を代表する。(中略)循環的な思考を湿潤な森林地帯の思考と結びつけ、直線的な思考を乾燥した砂漠地帯の思考と結びつけて説明されることがある。しかし(中略)『古事記』『日本書紀』に述べられる神話は(中略)循環的なものではない。むしろ仏教の輪廻思想によって循環的な思考が浸透した(以下略)
直線思考は、永続できない。つまり、親の世代と、自分たちの世代と、子の世代くらいしか考へない。日本人は、仏法で循環思考を建て前では持つ。しかし感情は直線思考である。だから先祖代々を祭る。日本人は、論理より感情優位である。
欧州人が直線思考なのは、自己本位だからだ。直線思考を成り立たせるには、死後は時間の経過とともに魂は衰弱し、いつかは滅びる、としなくてはいけない。さもなければ、膨大な数の動物が毎日死ぬのだから、いつかはあの世が満杯になる。しかし欧州人は自己本位だから、自分さへよければいい。だから衰弱滅亡思想を信じたくない。そして地球滅亡が目前に迫った。
兼(歴史の流れの復活を、その五百四十)へ
兼(歴史の流れの復活を、その五百四十二)へ
----------------ここまで(歴史の流れの復活を、その五百四十一)------------------
一〇~一一世紀の道原によって著された『景徳伝灯録』はインドから中国に及ぶ千七百一人もの禅宗の系譜を述べたものである。巻二十七には禅宗の系統には属さないけれども、すぐなた禅者として天台の系譜も挙げている。そこでは南岳慧思(五一五~五七七)と彼に師事した智顗(五三八~五九七)とが、(以下略)
ここで注目するのは、智顗の摩訶止観は当時の中国仏法の流れだと思ってきたが、南岳慧思の思想をどれほど引き継いだのか。南岳慧思に師事しようと思ふこと自体、中国仏法の流れだらう。止観の伝承がなければ、南岳慧思に師事する筈がない。
三学を目指す手立ての止観でも宗派によりて複雑化 経蔵論蔵複雑化つひに分裂多くの宗派
反歌
年月で複雑化する教義かな摩訶止観には複雑すぎる(終)
「初期仏法を尋ねる」(百四十三)
「初期仏法を尋ねる」(百四十五)
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