二千七百八十六(うた)長澤和俊訳「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」その五
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月三日(火)
ナーランダ寺へ戻ったあとも、巻の第四は続く。別の寺の大徳は
バーラパティ国(括弧内略)の人で、薩婆多部で出家し、その宗派の三蔵や声明、因明に精通しているという話を聞いた。法師はそこでその地に二ヵ月滞在し、疑問を明らかにすることができた。

薩婆多部とは説一切有部とほぼ同じ。ナーランダ寺へ戻り、
大徳シムハラシュミ(括弧内略)は、この寺で衆僧に龍樹の『中論』と提婆の『百論』を講義し、それらを重んじて無著の『瑜伽論』を攻撃していた。法師は(中略)”聖人が教を立てる場合、[いろいろの面から説くが]究極の真理は一つで、あい矛盾していない。ところが小人は(中略)相反していると見てしまうのである。

これはよい話である。更に云へば、すべての論は戒定慧を得る手段に過ぎない。
従来と大乗含め経蔵と律蔵すべて同じにて 違ひはすべて論蔵と注釈書及び物語りにて

反歌  教へから科学がいまだ分かれずの世にて教へは難しくなる
さて
ウダ国の僧侶はみな小乗を学び、大乗を信じなかった。そして大乗を空花(括弧内略)外道といい、シャカの説いたものではないと言っていた。

そこで論争をすることになり、大乗側は法師など四人が選ばれた。法師は
「小乗諸部の三蔵は、私の本国でも行われておりますし、カシュミールに入って以来、(中略)学びつくして(中略)もし誰かがその教えで大乗の教儀を破ろうとしても、そんなことができる筈はありません。(中略)必ず説き伏せてみます。

従来の三蔵で大乗を破らうとするときは、第一次結集や、根本分裂時に大乗はどちら側か、がよい。とは云へ、結論は出ないだらう。それは大乗側も同じだ。この論争は、延期になった。

六月四日(水)
巻の第五へ入り
ハルシァヴァルダナ王が歩くときは、いつも金鼓数百をひきい、(中略)この慣わしは大王にのみ許されたもので、他の王は同じようにすることは許されていない。

法師が大王の前で
大王の宗義が広大で小乗の教えが浅く狭いことを述べ(以下略)

法要が行はれ
多くの人々を邪道から正道に導き、小乗をすてて大乗につかしめた。

後の天台大師に摩訶止観の著があるやうに、或いは大乗に分類される達磨大師の門流が坐禅に特化してゐるやうに、この当時は従来も大乗も、同じ修行をしてゐた。
この後、法師は唐へ帰国する。途中で
法師はある寺に五十余日滞在し、経典の一部を失ってしまったので、更に人をウヂャーチ国(括弧内略)に遣わし、カーシャビヤ部(括弧内略)の三蔵を抄写させた。

途中の
アンタラーヴァ国(括弧内略)に着いた。ここはトカラの故国で、伽藍三ヵ所、檀徒数十人がおり、大衆部の法を学んでいた。

周辺七ヶ国もトカラの故地だ。トカラとは、アフガニスタン北部のトハリスタンだ。
---------------------ここから兼「良寛和尚」-------------------
仏の世 南伝はる教へから 達磨運ぶの坐りから 法師と和尚歩む旅から

反歌  仏の世年経る毎に難しく三つ学ぶの時へと還る
南伝の教へは、それが既に広まった国では重要だ。東アジアでは達磨の門流が重要だが、実践例として玄奘法師と良寛和尚が重要だ。
玄奘法師は、この後も多くの国を経て、唐へ帰国した。
往く時は九死一生天竺へ還りは少し楽も困難
(終)

「初期仏法を尋ねる」(百三十九) 「初期仏法を尋ねる」(百四十一)
前の、良寛和尚         次の、良寛和尚

メニューへ戻る うた(一千三百二十五)へ うた(一千三百二十七)へ