二千八百(うた)最新の止観(瞑想、坐禅)論
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月十一日(水)
最近気付いた事が在る。静かな環境で静かに止観をすることを、一日に一回は必要で、これは静かに止観する状態を忘れないためである。
しかし、そののちに何回も静かな環境で止観することは必要だらうか。静かな環境では、静かに止観できるのが当然のことだ。出来ないのは、時間の経過とともに心がさざ波で揺れるからで、これを止める必要はない。
世間には、いろいろと心を乱すことがある。嫌な人がゐる、納期に間に合はない、必要なものが見つからない、等々。そのやうなときにも、貪瞋痴を越える。これこそ止観ではないか。
此れまで、止と観が必要なことを書いてきた。しかし、貪瞋痴の渦巻く心境で止観をして、貪瞋痴を越える。これが最新の止観論である。
貪瞋痴渦巻く場所に止観こそ実効のある仏の修行


六月十二日(木)
これまでも述べて来たので最新ではないが、止観は手段であって目的ではない。それでは目的が何かを挙げれば、三毒(貪瞋痴)の克服であり、三学(戒定慧)の達成である。ここまでは、出家も在家も同じ。出家は更に、六道輪廻の解脱も目的にする。
六道輪廻の解脱は、四苦を超越する唯一の方法だ。それは現代でも変はりない。しかし科学万能の時代に先進(地球を滅ぼす発狂行為が先に進む)国に生まれ人たち向けには、これも止観の方法だ、と解決することもできる。
さて、これからは最新で、玄奘法師と良寛和尚は、どちらも旅の僧なので、これまで同じだと思ってきた。しかし袴谷憲昭「佛教史の中の玄奘」の中に、玄奘と法沖の話があり、正反対だった。この話は、良寛渡航説の柳田聖山さんを引用するので、その奇遇に喜ぶ。
渡航説聖山さんはもう一つ経派修行派二宗並列

反長歌  経派とは経を学ぶの僧徒にて玄奘法師がその一人 修行派三毒超える人三学目指し出家では良寛和尚涅槃も目指す
玄奘法師は経典の僧、良寛和尚は修行の僧。更に、玄奘法師は唐の皇帝や西域各国の王に近い僧、良寛和尚は庶民とのみ親しい僧。
六道輪廻からの解脱に近いのは、良寛和尚だ。玄奘法師の翻訳した経本は、六道輪廻からの解脱とは異なるものばかりだった。当時は、仏法と科学が未分化の時代なので、それも一理ある。

六月十四日(土)
良寛和尚の行ひを振り返ると、まさに静かではない環境で止観をすることだった。清貧な日常、清貧な旅、庶民と共に哀しみ、庶民と共に嘆き、庶民と共に喜ぶ。
玄奘は法師良寛和尚にて達磨が大師 釈尊は仏陀総ての根源と為す

反歌  天竺へ法師と清へ和尚行く旅と仏は果てること無し(終)

「初期仏法を尋ねる」(百四十六) 「初期仏法を尋ねる」(百四十八)
前の、良寛和尚
(玄奘法師を飛ばすと)(百三十五)

メニューへ戻る うた(一千三百三十九)へ