二千七百八十八(うた)長澤和俊訳「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」その六
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月四日(水)
巻の第六で、法師は西京(長安)に入る。法師が西域で集めたものは、
シャカ如来の肉舎利百五十粒
仏像七体。すべて釈尊なので後の大乗とは異なるが、「鷲峯山に法華経などを説かれる像」が一体あるので、大乗の影響はある。
大乗経二百二十四部
大乗論百九十二部
上座部経律論十五部
大衆部経律論十五部
三弥底部経律論十五部
弥沙塞部経律論二十二部
迦棄臂耶部経律論十七部
法密部経律論四十二部
説一切有部経律論六十七部
因論三十六部
声論十三部
従来の多くの部が十五部なのは、原文が同一で改変が少ないことを示す。そのやうな中で、説一切有部経律論の六十七部は異常だ。大乗が、小乗と批判する相手は説一切有部との論を前に見たことがあるが、あり得る話だ。
尤も、経律論のうち論蔵の話で、経蔵と律蔵はほとんど同じであらう。このあと、法師は皇帝に
サンスクリットの経典は六百余部ありますが、私は一言も訳しておりません。(中略)小室山に少林寺という寺があるとのこと。そこは人居を離れ、(中略)かの菩提留支三蔵が経典を翻訳した所とのことです。
これに対し、皇帝は
西京(長安)に弘福寺を作った。この寺には禅院があって、非常に静かです。
そして翻訳が始まった。
西京は 北京南京 敷島の東京及び越南のトンキン合はせ 五つが揃ふ
反歌
日本には京都もありて千年の都亜細亜に六つが揃ふ
六月四日(水)その二
巻の第七で、帝の法師への信頼は大きかったが、帝が病気気味になった。
その時法師に遇い、ついに八正(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)に心を留め、五乗(声聞、縁覚、菩薩、人間、天上)に心を置くようになり、ついに体力も回復された。
これは従来の仏法そのものである。後半の菩薩は大乗だと云ふこともできるが、これを含めて従来そのものである。つまり大乗とは、従来に付加した物語りや頭の体操だった。
中インド国の摩訶菩提(マハーボーディ)寺の大徳、智光(括弧内略)、彗天(括弧内略)等が、手紙を法師に送ってきた。智光は大小乗を始め、外典の四ヴェーダ、五明論などに精通した人で、(中略)彗天は小乗十八部に広く精通し、先生としての徳も高く、インドで深く尊敬されていた人であった。(中略)彗天は(中略)大乗に関心を持たず、偏見を固執していた。法師は常にこれをやりこめ、(中略)彼も調伏されたのだった。
これはどうか。それよりこの時代は、知識として持つことが、信仰より重要だと分かる。と云ふ事は、信仰自体はどちらも同じ(瞑想、修行、持戒)だった。決して知識が重要ではない。区別に重要だった。(終)
「初期仏法を尋ねる」(百四十)
「初期仏法を尋ねる」(百四十二)
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