二千七百八十四(うた)長澤和俊訳「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」その四
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月二日(月)
巻の第四に入り、イーリナ国から三百里でチャンパー国(中インド)へ入る。
伽藍が十ヵ所あり、僧侶は二百余人で小乗教を学んでいた。
東南に九百余里でカルナスヴァルナ国(東インドの境)に至る。
伽藍が十余ヵ所あり、僧侶は三百余人で、小乗正量部の法を学んでいた。ほかに三つの伽藍があって、ここの人は乳酪(ヨーグルト)を食べない。この人々はデーヴァダッタ(括弧内略)の遺教を奉じて食べないのである。
注目すべき部分を赤色にした。デーヴァダッタの末流も健在だった。
次にサマタタ国(東インドの境)に着いた。
この国は大海にのぞみ、気候も温和である。ここには伽藍が三十余ヵ所、僧徒は二千余人おり、上座部を学んでいる。また天神を祭る外道も多かった。
サマタタ国から西へ九百余里ゆくと、タームラリプティ国(東インド)に着く。
この国も海に近く、伽藍は十余ヵ所あり、僧徒は千余人いる。(中略)はるか[南方]海上にシンハラ国(括弧内略)という国があり、そこでは上座部の三蔵を明らかにし、『瑜伽論』を理解する者がいる。(中略)出発前に法師は、南インドの僧にあった。彼は、「師子(シンハラ)国に往くには(中略)南インドの東南隅から行けば、舟にのって三日で行きつくことができます。(中略)途中、烏茶(ウダ)等の諸国の聖跡を見ることができます。」と勧めてくれた。
先程サマタタ国で上座部が出て来たが、これはシンハラ(スリランカ)の南伝上座部と同じであらう。当時からその名ではないと思ふ。長澤和俊さんが現代に当てはめたのかも知れない。
法師はウダ国へ向かひ
この国には、伽藍が百余ヵ所、僧徒が一万余人もおり大乗の法を学んでいた。また天神を祠る外道もおり、正邪の徒が雑居していた。
西南に千二百余里でコーンゴーダ国(東インド)に着き、更に西南に千四、五百里でカリンガ国(南インドの境)に着く。
伽藍十余ヵ所、僧五百余人がおり、上座部の法を学んでいる。
西北へ千八百余里で南コーサラー国(中インドの境)に着く。
伽藍が百ヵ所、僧徒が一万人おり、天神を祭る外道もまたすこぶる多かった。
東南へ九百里ゆくとアンドラ国(南インドの境)に至る。南行千余里でダーニヤカタカ国(南インドの境)に至る。
法師はこの国で(中略)二人の僧に逢った。(中略)ともによく大衆部の三蔵を理解していた。そこで法師はここに数ヵ月滞在し、大衆部の『根本阿毘(原文では上ではなく左が田、下ではなく右が比)達摩』(括弧内略)等の論を学んだ。彼等もまた法師につい大乗の諸論を学び、(中略)一緒に聖跡を巡礼することになった。
西行千余里でチョールカ国(南インドの境)、そこから千五、六百里でドラヴィダ国(南インドの境)に着いた。
ここからシンハラ国に向えば、舟旅三日で行くことができる。法師がまだ出発しない内に、シンハラ国の国王が死に、国内は飢饉に乱れてしまった。(中略)三百人余りの僧がインドに逃れ(中略)法師は彼等と会見して、次のように尋ねた。
「伺うところによると、シンハラ国の大徳らは上座部の三蔵と『瑜伽論』をよく知っておられるとか。(以下略)」
そして瑜伽の一節を質問したが、戒賢法師の右には出なかった。
シンハラは上座の寺と大乗を兼ねた寺あり このときは兼ねた寺にて玄奘はシンハラへ行く好機を逃す
これは残念なことであった。
根本の分裂のあと上座部は 南インドとシンハラに名を引き継がれたか少し疑問が
反歌
インドにはヒンズー教の復興とイスラムにより全派滅びる
西北に千余里、パールカッチャパ国(南インドの境)に至り、西北二千余里でマーラヴァ国(南インドの境)に至る。
伽藍が壱百余ヵ所、僧徒が一万人おり、小乗正量部の教を学んでいる。またほかに灰を塗ったり天神に仕える外道の衆がいる。
アタリ国、カッチャ国を経てヴァラビー国(南インドの境)に至る。
伽藍百ヵ所、僧徒が六千余人おり、小乗正量部の法を学んでいる。ここから十か国(一つは往路で通る)を巡ってパールサ国(北インドの境)へ入る。
伽藍二、三ヵ所に僧徒数百人がおり、小乗教の説一切有部を学んでいる。
そのあと五ヶ国を経て、マダガ国のナーランダ寺へ戻る。(終)
(6.03追記)当ホームページは、根本分裂の上座部と、南伝の上座部を区別するため、後者を南伝上座部或いは南伝仏法と呼ぶやうにしてきた。しかし原文が上座部ならさう呼ぶことを復活したいが、詳細は不明だ。
兼「初期仏法を尋ねる」(百三十八の二)
「初期仏法を尋ねる」(百四十)
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