二千七百四十二(うた)最新の歌論(無意味な字句、用言重ね、二種の性格、美しきも凡庸も)
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
五月二日(金)
五年前から四年前までの歌を修正し、これは終了した。次に、句で区切った書式を、今の書式に変更を始めた。その過程で、破調、促音、音便、過去形で修正を見逃したものを直してゐるが、新たに気付いたものがある。
それは、無意味な字句を有意義なものに変へる。例へば「心を静める働きと 更に観察することも」の赤字部分が無意味なので「深く観察」に直した。

五月四日(日)
用言を重ねる美しさに気付いたのは、テネシーワルツ日本語訳の「流れ来る」を聴いたときだった。五日前の歌「掘り下げ見ればざくざくと」は「掘ればざくざく」に短縮することもできる。長歌ではなく短歌になってしまふが。長いまま残したのは、用言を重ねる美しさだった。
作り見て直しまた詠み美しさ高まり進む用言重ね


五月五日(月)
小生は、小説が嫌ひだ。明治以降に西洋の影響を受けたためであり、だからこの語を用ゐず、今でも物語と呼ぶ。もう一つ嫌ひな理由は、冗長だ。人間には手短か型と気長型がある。小生は手短か型だから、長い文章が合はない。
手短かと気長と二種の人がゐるどちらも一短一長を持つ

一長一短はよく使ふが、一短一長もある。手短かと気長に対応するので、同音繰り返しならぬ、同字繰り返しだな。
昔、製菓会社の販売推進懸賞で「せっかちくん」「おとぼけくん」人形があった。お菓子を買ふと、たまに「せっかちくん」カードか「おとぼけくん」カードが中にある。それを何枚か集めると、録音装置の入った人形が貰へた。「せっかちくん」は速く、「おとぼけくん」はゆっくりと再生した。その語を用ゐると、せっかち型、おとぼけ型かな。

五月六日(火)
歌論でいつも云ふことは、物語内の表現と同じで、美しい表現も凡庸な表現もある。川端康成の物語「雪国」は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の文章が最後まで続く訳ではない。
凡庸な歌でも載せるには、散文内で意味を持たせることだ。とは云へ、推敲を繰り返すと凡庸を克服できる。
萬葉集は、美しい歌も凡庸な歌もあり、いはば電話帳や辞書である。そして、その時代の記録に価値がある。古今集は、選者が勝れると思ふ歌を集めた。載ることは名誉なことだった。とは云へ、縁語や掛詞などその時代の技巧を記録した価値がある。
載ることが名誉になると、あとは堕落する。だから古今集より後は、駄目になった。
よろづ葉は幅が広きが特長に美しきあり凡庸もあり
(終)

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