二千七百(うた)1.最新の歌論、2.保守主義とは
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
三月三十日(日)
複雑な歌論は、歌論ではない。これが今回の主題である。複雑な歌論の代表が、貫之と子規だ。子規については、西洋に迎合して和歌を発展させようとしたか。これは岡倉天心と同じだ。西洋の批判に耐へられないものを淘汰するならよいが、勝れたものまで改変しようとした。
小生はかつて、子規の写生には心の描写も含まれる、と解釈した。しかし写生論そのものが正しくない、と考へを発展させた。目の前に見えるものは、正しいこともあらう。しかしさうではないことのほうが多い。
左千夫は、昭和六十年辺りから不当に低く評価されるやうになった。それだけの理由で左千夫に肩入れしてきたが、左千夫の最大の欠点は子規の歌論に従順なことだ。あと、左千夫一門には退屈な歌の人が多い。左千夫は壮大さで、茂吉は西洋留学日記風で、救はれた面がある。
三月三十一日(月)
子規の欠点は、俳諧発句を引き継ぎ、字余りに甘い。今までさう思ってきたが、子規はそれ以上に悪質だった。
字餘りの和歌俳句
と題する文書は
而して字餘りを用うるは例外の場合にて常に用うべきにあらずとは歌人俳諧師等が一般に稱へ來れる掟なり。されど此掟程謂いはれなき者はあらじ。
三十一文字と定め十七文字と定めし事もと是れ人間が勝手につくりし掟なればそれに外れたりとて常に用うべきにあらずとは笑ふべき謬見な。
で始まる。さう云ふ掟だから従ふのではない。その調子が心地よいから従ふのである。子規は、俳諧発句や歌ではなく、不定型詩の作者になるべきだった。
終はりは
況んや三十一字の和歌十七字の俳句は古來より言ひ古して大方は陳腐に屬し熟套に落ちし今日少くとも三十二三字又は十八九字の新調を作るの必要を見る。余は向後先づ此一點より漸次陳套を脱せんとするの志あり。彼の卑俗なる都々一すら初めは七、七、七、五のみの句調なりしを後には五、七、七、七、五の句調を爲し又は七、七、八、五の句調を爲すに至れり。都々一此進歩を爲す。歌人俳諧師たる者何ぞ猛省せざるや。
和歌の字餘りには古來遵奉うし來れる法則あり。即はち「ア」「イ」「ウ」「オ」の四母音ある句に限り字餘りを許したるなり。是れ三十一字を標準としたる考へよりすれば至當の事なれども前に述べし如く字餘りを姑息なる例外物となさずして一種の新調と爲す上は母音子音の區別はあながちに之れを言ふを要せざるなり。
「ア」「イ」「ウ」「オ」の四母音に字余りを許すのは、朗詠のときに母音のみの字は半字の長さだからだ。「エ」が抜けるのは、元は子音を伴ふ発音もあったためだ。
因みに小生自身は、「ア」「イ」「ウ」「オ」があっても字余りは避けたい。とは云へ、「ア」「イ」「ウ」「オ」の字余りは表現力が拡大する。だから使用することもある。「子規(破調派)」<「万葉から明治中期まで」≦「小生」、かな。かつては後半の部分が、「万葉から明治中期まで」<「小生」、だった。
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三月三十一日(月)その二
左千夫に肩入れしたのは、不当に低く評価されるやうになった為だと、昨日書いた。良寛和尚の渡航説に賛成するのも、反対説が山のやうに出て、低質なのに量で圧倒したからだ。拝米反中に反対するのも、日本は拝米が過ぎて亡国寸前だからだ。
この平衡作用こそ、保守主義である。日本では、拝米が保守と勘違ひする人がゐる。その発生理由は、かつてソ連中国寄りを革新、アメリカ西欧寄りを保守と称した。これは革新が昭和五十年までは勢ひを増し、それに対する保守であった。ベトナム戦争の終結とともに、革新は勢ひを失ひ、逆にアメリカの世界支配が行き過ぎた。日本でも拝米へ行き過ぎた。だから今の日本では、離米こそ保守である。
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