二千五百五十八(朗詠のうた)牧水「みなかみ紀行」の歌を鑑賞(その一)
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十一月二十日(水)
小生が肩を持つ歌人は幾人かゐる。左千夫は、近年特定の意図を以って無視される傾向があるので、平衡のため肩を持つ。決してすべての歌に賛成では無いが、佳い歌はある。
赤彦は若くして亡くなったため、本来は茂吉と並ぶ歌人なのに、最近は影が薄くなった。
八一はその美しい口調が取り柄だが、独特の書き方が禍した。
牧水は旅の歌人として、人気がある。だから小生が平衡の為に肩を持つ必要はない。前に牧水門下のみどりを誉めたことがあった。そのとき、牧水の佳作の比率は、子規や左千夫と同程度だ、と評したことがあった。しかし、牧水の勝れた歌は、子規や左千夫より遥かによい。しかも佳作としなかった歌も、歌の中に美しさがある。
そんな牧水だが
九十九折けはしき坂を降り來れば橋ありてかかる峽の深みに
の「降り来れば」が引っ掛かる。前にテネシーワルツの訳詞の「去りにし夢」「なつかし愛の歌」「面影忍んで今宵も歌(うと)ふ」「思ひ出なつかし」「今宵も流れ来る」「今はいずこ」「呼べど帰らない」が美しい表現だとした。このうちの「流れ来る」と同じなのにと、歌詞を見て気付いた。「今宵も流れ来る」だ。「今宵も」に当る部分が無い。まづさう結論を得た。しかし「けはしき坂を」がその部分に当らないか。次に、用言を二つ重ねれば良いと云ふものではない。「降り來れば」ではなく、「降り行けば」とすれば良かった。
その次の歌は
おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨の里といふにぞありける
これは地名が美しい。地名が美しい歌は、万葉集にも多く、これは歌の醍醐味だ。
十一月二十一日(木)
枯れし葉とおもふもみぢのふくみたるこの紅ゐをなんと申さむ
明治維新の後に、科学と感覚の不平衡を生じた。当時は、そのことさへ誰も知らなかった。この歌はそれを示す。子規門下だと、この歌は理屈だ、と批判するかも知れない。
もみぢ葉の枯れるに非ず紅は今が頂き命輝く
江戸時代までの感覚は、かうだと思ふ。
露霜のとくるがごとく天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉
「露霜」の使ひ方が美しい。「天つ日の光」は冗長に見えて、ここが美しさの頂点。「にほふ」も佳い。
露霜をとかす天つ日光には強さのほかに美しさあり
溪川の眞白川原にわれ等ゐてうちたたへたり山の紅葉を
「眞白川原」は、美しい造語とみるか、字数合はせとみるか。小生は前者だ。「われ等ゐてたたへたり」だと平凡だが、「うち」で乗り越えた。
山の間の真白溪川ちはやふる神の息吹を勢ひと見る
もみぢ葉のいま照り匂ふ秋山の澄みぬるすがた寂しとぞ見し
「いま照り匂ふ」の表現が美しい。「秋山の澄み」も美しい。「寂し」は小生の感覚と異なるが、牧水愛好者はかう云ふところがたまらないのだらう。
もみぢ葉と澄む秋山もこの星が暑くなり過ぎ寂しとぞ見る
十一月二十二日(金)
落葉松(からまつ)の苗を植うると神代振り古りぬる楢をみな枯らしたり
楢の木ぞ何にもならぬ醜(しこ)の木と古りぬる木々をみな枯らしたり
木々の根の皮剥ぎとりて木々をみな枯木とはしつ枯野とはしつ
伸びかねし枯野が原の落葉松は枯芒よりいぶせくぞ見ゆ
下草のすすきほうけて光りたる枯木が原の啄木鳥(きつつき)の聲
枯るる木にわく蟲けらをついばむと啄木鳥は啼く此處の林に
立枯の木々しらじらと立つところたまたまにして啄木鳥の飛ぶ
啄木鳥の聲のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける聲のさびしさ
紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の聲のさびしさ
白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りて啄木鳥は啼く
ましぐらにまひくだり來てものを追ふ鷹あらはなり枯木が原に
耳につく啄木鳥の聲あはれなり啼けるをとほく離(さか)り來りて
この十二首は連作だ。物語性、つまり実効の美しさを味はひ、個々の歌を批評するのは不適切だ。
夕日さす枯野が原のひとつ路わが急ぐ路に散れる栗の實
ここは六つの連作で、この歌が先頭。「ひとつ路」と「わが急ぐ路に」が重複だ。牧水と小生は、重複への許容度が異なるのか、ではなく、ここの六首は推敲が足りないのではないか。「わが急ぐ路」と「に」を消せば「ひとつ路」と対句になる。残りの五首は
音さやぐ落葉が下に散りてをるこの栗の實の色のよろしさ
柴栗の柴の枯葉のなかばだに如(し)かぬちひさき栗の味よさ
おのづから干て搗栗(かちぐり)となりてをる野の落栗の味のよろしさ
この枯野猪(しし)も出でぬか猿もゐぬか栗美しう落ちたまりたり
かりそめにひとつ拾ひつ二つ三つ拾ひやめられぬ栗にしありけり
推敲したほうがよい部分を赤色にした。「をる」は字数合はせと思はれてしまふ。「柴の枯葉」は冗長、「落ちたまりたり」も冗長。もう一つ赤色にはしなかったが、「よろしさ」は変へる方法もある。「味よさ」に合はせて「色よさ」に変へ、前に三文字入れる。
草枕旅の半ばで詠む歌は家で見直す旅心にて(終)
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