二千五百六十(朗詠のうた)牧水「みなかみ紀行」の歌を鑑賞(その二)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
十一月二十三日(土)
先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の學校に
ひたひたと土踏み鳴らし眞裸足に先生は教ふその體操を
先生の頭の禿もたふとけれ此處に死なむと教ふるならめ
ここからは破調が現れ、牧水らしからぬ歌になる。そのやうな中で一首目と三首目は、内容が優れる(一首目の破調は駄目だが)。二首目を含めて、物語性である。だから「その」は冗長だと批判してはいけない。物語の一部なのだから。或いは「その」は強調を表す連体詞だと考へてもよい。
眞裸體になるとはしつつ覺束な此處の温泉(いでゆ)に屋根の無ければ
折からや風吹きたちてはらはらと紅葉は散り來(く)いで湯のなかに
樫鳥が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り來わが見てあれば
二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫鳥ゐたりその紅葉の木に
今回から、破調はすべて赤色にした。一首目は、物語性だけで救はれた。それが無ければ、永久出入り禁止だ。牧水の場合は永久飲酒禁止だ。せめて次くらいに推敲すれば、処分は免れる。
服脱ぎをためらふ寒さ此処の湯は風を凌ぐの屋根は無ければ
橙色にしたのは、本歌取りより更に本歌に近い。本歌取りなら
服脱ぎをためらふ寒さ山の湯は風を凌がず日が射しこめる
次は
ひと夜寢てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり
起き出でて見るあかつきの裏山の紅葉の山に雪降りにけり
朝だちの足もと暗しせまりあふ峽間(二文字で、はざま)の路にはだら雪積み
上野と越後の國のさかひなる峰の高きに雪降りにけり
はだらかに雪の見ゆるは檜(ひ)の森の黒木の山に降れる故にぞ
檜の森の黒木の山にうすらかに降りぬる雪は寒げにし見ゆ
ここは物語性あり、表現も美しい。どうしても選ぶなら「立ち出づる」か。古語にも「立ち出づ」があるから問題は無し。「立つ」「出づ」が温泉の縁語と云ふ事は、牧水に限り無いだらう。「立ち歩く」辺りがよいのでは。
一層の事、縁語を強調して
ひと夜寢て湯と立ち出づる山かげの宿りの村に雪降りにけり
本歌取りなら
山の端が明るくなりて宿を背に湯と立ち出づる雪の舞ふ道
十一月二十四日(日)
きりぎしに通へる路をわが行けば天つ日は照る高き空より
路かよふ崖のさなかをわが行きてはろけき空を見ればかなしも
木々の葉の染まれる秋の岩山のそば路ゆくとこころかなしも
きりぎしに生ふる百木のたけ伸びずとりどりに深きもみぢせるかも
歩みつつこころ怯ぢたるきりぎしのあやふき路に匂ふもみぢ葉
わが急ぐ崖の眞下に見えてをる丸木橋さびしあらはに見えて
散りすぎし紅葉の山にうちつけに向ふながめの寒けかりけり
しめりたる紅葉がうへにわが落す煙草の灰は散りて眞白き
とり出でて吸へる煙草におのづから心は開けわが憩ふかも
岩蔭の青渦がうへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉
苔むさぬこの荒溪の岩にゐて啼く鶺鴒(二文字で、いしたたき)あはれなるかも
高き橋此處にかかれりせまりあふ岩山の峽のせまりどころに
いま渡る橋はみじかし山峽の迫りきはまれる此處にかかりて
古りし欄干(二文字で、てすり)ほとほととわがうちたたき渡りゆくかもこの古橋を
いとほしきおもひこそ湧け岩山の峽にかかれるこの古橋に
物語性の美しさだ。だから個々の歌の批評はすべきではないが、破調はよくない。あと「をる」「かりけり」は字数合はせでよくない。「わが急ぐ崖の眞下に」を本歌取りすると
山道の崖の真下は丸木橋あらはに両(ふた)つ歩くに怖し
歌の新しい鑑賞法が生まれた。本歌取りすることだ。今までの本歌取りは、作る為に本歌を引用した。新しい本歌取りは、本歌を鑑賞のために行ふ。(終)
「和歌論」(二百二)歌を鑑賞(その一)へ
「和歌論」(二百四)歌を鑑賞(その三)へ
メニューへ戻る
うた(一千九十九)へ
うた(一千百一)へ