二千五百七(朗詠のうた)西行・実朝・良寛和歌集
甲辰(西洋未開人歴2024)年
十月八日(火)
西行の歌集とともに「西行・実朝・良寛和歌集」も借りた。こちらはポプラ社「ジュニア版古典文学9」とある。しまった小学生向けの本を借りたか、と思ったが読んでみると高校生向けだった。ジュニア版とは、大人向けを若者向けにしたもので、昭和五十一年にはさう云ふ意味は確かにあった。
本文へ入る前の「はしがき」に西行は
出家し、(中略)自然とまじわることによって、自然と人、人と人との愛情をたしかめ合い、そこから生まれるよろこびやかなしみをうたいあげたのが西行の歌である。
実朝は
苦悩にみちた自分を見つめつづけて、彼がたどりついたのは、正直にさけび、泣き、怒る『万葉集』の世界であった。
良寛和尚は
禅僧として、清く貧しい生き方を守りとおした彼の精神は、(中略)自然をいつくしみ、人を愛した点では西行につうじ、『万葉集』を理想とした点で実朝につうずる。そしてこのふたりを超えて良寛のもっていた個性、それは、庶民性とでも名づけたらよいであろうか。
十月八日(火)その二
それでは西行に入り
道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ
新古今に載るが、西行紹介の文中で引用しただけで、この本の選んだ西行五十首には入らない。小生が西行について佳いと思ったのは、この一首だけだった。
奈良朝の貴族が、自分たちの手で古代国家をきずきあげるという、非常に建設的な立場にあったのに対し、平安朝の貴族は、荘園制が確立していくにつれて、地方の寄進や贈り物にたよって、自分たちの手をよごすことなく生活できる立場におかれていた。
そして平安末期には、武士の勢力におされ
現実の世界をなるたけわすれ、空想の世界(中略)に、理想の美しさをもとめたのである。するどくとぎすまされた感覚で、このうえもなく美しいことばを選び、複雑な修飾をかさねて、幾重にもかさなりあった微妙な感情をただよわせる
それが新古今集だと云ふ。もう一つ「微妙な感情」は、現代短歌と云はれるものの欠点だと、小生はこれまで述べて来た。なるほど現代短歌は新古今調なのか。尤も美しいことばと複雑な修飾は無いが。
西行は新古今の時代だが
仏道修行というきびしい現実の生活があった。
歌の紹介に入り
白川の関屋を月の洩る影は人の心を留むるなりけり
これは美しい。関の縁語として、洩ると守る、留むると止むる、に気付かなかったとしても(小生のことだが)。縁語は苦手だ。
淡路島瀬戸のなごろは高くともこのしほにだにおし渡らばや
力強さが佳い。「しほ」は潮と、しほどきの掛詞。これも云はれないと気付かない。古今以降の掛詞は嫌ひだが、この掛詞は嫌味が無い。かう云ふ掛詞がよい。
庵(いお)にもる月の影こそさびしけれ山田は引(ひ)板(た)の音ばかりして
これは美しい。その一方で
夕露を払へば袖に玉消えて路分けかぬる小野の萩原
これは前に指摘した、石を五つぎっしり詰めた歌だ。西行の最後に、新古今集にあるものは出来るだけ省いたとある。「ジュニア版古典文学2」が古今集・新古今集で重複を避ける為とある。そこで
「古典文学2」を借りることにした。
一つからほかの綴りへ広がるが読む楽しみにはた年の前
国会図書館や横浜市立図書館などで、一冊から複数の別の書籍、そこからまた別の書籍と、輪が連鎖して広がったことを思ひ出した。
十月九日(水)
実朝は十四歳で新古今集の未完本を手にした。十七歳で古今集、二十二歳で万葉集を手にした。万葉集のお礼に金槐集を定家に送った。その数六百六十首。その後暗殺されるまでの六年間に九十首しかなく
歌への情熱は、急速にひえていったものらしい。(中略)この年が和田合戦の年であり、北条執権体制が不動のものになった年であることと、深くかかわっているようである。
実朝は何に興味を持ったのだらうか。万葉集と考へたい。
今朝見れば山も霞みて久方のあまの原より春は来にけり
これは佳い歌である。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
これは代表作。この本は三十首を選んだが、そのうち二首で共感した。
実朝は 民と異なる食べ物や着物や家でありとても 歌に出ないは若くして優れる故の為せる技かも
反歌
実朝は古きと今の綴り読み四とせの後によろづはを詠む
-----------------ここから 「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十)---------------
十月十日(木)
良寛和尚について
貧しさの中に身をおいて仏道をきわめようと(中略)良寛は、三十年もの長いあいだこれをかたく守りとおした。ことに越後は豪雪の地、(中略)強い精神力と実行力があって、はじめてできることである。
これが正しい。ここを多くの人が誤解してゐる。
生活の手段は托鉢であった。この托鉢をつうじて、良寛と良寛をとりまく人びととのあたたかい輪ができあがっていった。
ここも大切である。托鉢は、良寛和尚と周りの人びととの温かい輪だった。
越後の人は今でも、「良寛サ」とよぶという。
「良寛さん」と呼ぶとは読んだが、正しくは「良寛サ」なのだらう。因みにこの本の著者栗山正好さんは奈良県出身で、奈良県の高校教師。「生涯身を立つるに懶(ものう)く」で始まる詩の此の部分を
生涯、立身出世のためにあくせくするのはいやなこと
と訳したのは名訳だ。他の人は、ものぐさな性格だと訳す。「誰か問はん迷悟の道」を
まよいの心、悟りの心、そんなものは私の知らんこと。
これも名訳だ。ここも違ふ訳し方の人が多い。「何ぞ知らん名利の塵」を
名誉だ利益だといっても、これも私の知らんこと。
これも名訳だ。三十首の中で
飯乞ふとわが来しかども春の野に菫(すみれ)摘みつつ時を経にけり
は良寛和尚の性格をよく表した歌だ。調べが美しいのは
あしびきの片山かげの夕月夜ほのかに見ゆる山梨の花
尤もすべての歌が心地よい。良寛和尚を紹介する最後の歌は
山かげの岩間をつたふ苔水のかすかに我はすみわたるかも
解説は
三句末の「の」は「のように」という意で、そこまでがいわゆる序詞である。しかしこの序詞は、たんなる飾りではない。
さすが国語の高校教師である。
これまでに良寛和尚度々と取り上げた故 云ふことが無きは和尚を誉める言の葉
反歌
良寛さ飯乞ふにより人びとと会ふ輪となりて救ひ広がる(終)
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