二千五百五(朗詠のうた)西行の歌
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十月六日(日)
西行の歌集を図書館から借りた。山家集を読み始めて感じたことは、歌を全体で味はふのではなく、一つ一つの句で味はうので、息が抜けない、美しさを感じない。しかし句ごとに曲折する技巧を感じる。
普通の歌は、全体が一つの石である。西行の歌は、一つ一つの句が石で、五つの石がぎっしり詰まる。そんな感じだ。技巧ではあっても、美しさは無い。
西行はやはり合はない歌詠みか桜の下で死ぬの他にも
慣れるに連れて、合ふやうになるかも知れない。ならないかも知れない。
十月七日(月)
夏まで斜め読みで進んだが、良寛和尚の云はれた、古今集はまだよいがそれ以後は読むに堪へない、を改めて思った。西行は坊主のくせに
ともしする火(ほ)串の松もかへなくに鹿目合はせで明かす夏の夜
解説に「松明をともして鹿をおびき寄せ、狩る猟」とある。西行は、殺生を何とも思はない。
秋と冬は省略した。かう云ふ歌は読みたくない。「恋」の章を幾つか見たが、佳い歌は見つからず、なぜ坊主が恋の歌なんか作るのか。これが唯一の感想だった。
「雑」に入ると、何とか読める歌が多くなる。とは云へ、美しい歌は見当たらない。
(付録)これで西行の歌は終了し2100バイトだった。3500バイトまで追加したい。
良寛和尚は西行の墓にお参りしたが、西行の歌とはまったく異なる。西行は新古今、良寛和尚は万葉である。
良寛和尚がお参りしたのは、西行の生き方に共通点を見出したからだらう。どちらも寺の住職にならず、何回か庵を結んだ。西行は、京都、吉野、善通寺市内に庵の跡がある。良寛和尚は、五合庵、乙子神社社務所、木村家敷地内に住んだ。
良寛和尚は、前述のやうに古今集から後は読むに堪へないと述べ、また、専門歌人の歌は嫌ひだと述べた。西行の歌は、新古今であり、専門歌人である。良寛和尚は、筆では地元を中心に評判になったが、歌では貞心尼の「はちすの露」と、明治時代になってから會津八一らによってであった。
西行は真言宗の僧だったが、仏法のことは書かなかった。良寛和尚は、仏法に対する考へを大量の詩にまとめた。それは道元を尊敬する複雑化の立場から、単純化へ、そして全仏法へと広がった。
西行と良寛和尚を比べれば 寺に定住することはせずに貧しい庵にて 西行歌を詠むのみか良寛和尚道を究める
反歌
西行は歌詠みとして知られるも良寛和尚亡くなるの後(終)
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