二千五百十四(朗詠のうた)ジュニア版古典文学 万葉集
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十月十五日(火)
万葉集に入る前に、「ジュニア版古典文学 古今・新古今和歌集」を読み、小生とは歌感がまったく異なると判った。今までは、万葉集と古今集のどちらも、佳い歌は佳い、との立場だった。尤もこの本の選歌にもよる。また仮名序と貫之を、先頭で大々的に取り上げたことも、読む気を喪失させた。その後、新古今を読んだが、更に悪かった。

「ジュニア版古典文学 万葉集」は興味深く読むことができた。相聞の説明で
恋愛という言葉は、『万葉集』の時代にはなく、じつは明治二十年ごろ、北村透谷のつくった言葉であるという。

一方で
相聞の歌は『万葉集』四千五百首のうち千七百五十首ある。しかし、(中略)内容が恋愛の歌で相聞と分類されてもよいといわれる歌をふくめると、『万葉集』の八割ちかくまでが、相聞歌であるともいわれている。

防人が妻との別れなども含み、相聞ではあっても恋愛歌とは違ふ。相聞を離れて、挽歌に入り巻三の
こもりくの初瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ

について、火葬の風習は文武天皇四年(七〇〇)に道昭という僧を火葬にしたのが最初であるという。巻七の
秋津野を人のかくれば朝まきし君が思ほえて嘆きはやまず

について
火葬にした骨をまき散らす風習のあったことがうかがわれる。古い風習で散骨とよばれた。

ここ二十年ほど散骨が復活したが、その前は説明しないと分らなかったことを思ひ出した。或いは、仏法が入り火葬と散骨が広まったが、日本の先祖崇拝の習慣から、散骨が消失したとも考へられる。
家にあらば妹が手まかむくさまくら旅にこやせるこの旅人(と)あはれ

聖徳太子の歌は珍しい。「手まかむ」と「草枕」は同義で、小生は二句までを序詞と見た。枕詞の序詞は珍しい。二句までは三句以降と無関係では無いから、序詞では無い、ととる人が多いだらう。
序詞には、(1)無関係、(2)少し関係する、(3)完全に関係する、の三つがあり、このうち(3)は一般には序詞とは云はない。今回は(2)と見た。なぜなら、旅人には家族が居ないかも知れない。

十月十六日(水)
巻十九の
明日香川川戸を清みおくれ居て恋ふれば都いや遠ぞきぬ

解説に
大化の改新(六四五)から十年(六五五)めに即位した斉明天皇のころから、にわかにいきいきとした万葉の歌が登場する。(中略)十人の天皇、(中略)都うつりは七回ということになる。聖武天皇のあわただしい難波遷都をかりに無視してみても、平均十五年くらいに一回の都うつりという計算になる。

額田王の
うま酒 三輪の山
あおによし 奈良の山の
山の間に いかくるまでに
道のくま いさかるまで
つばらにも 見つつ行かむを
しばしばも 見さけむ山を
心なく 雲の かくさふべしや

反歌
三輪山を しかもかくすか
雲だにも 心あらなむ
かくさふべし也

「うま酒」は「三輪」の枕詞。今回は近江遷都だった。解説は
長歌と反歌にみなぎるこの強い嘆きは、何によるのであろうか。ただふるさと大和の国とわかれることばかりが、その嘆きの原因であったろうか。伊藤左千夫は、この歌にみなぎる感動を「額田王は真の恋人である大海人皇子にわかれるを悲しみ、はるかに三輪山を見て悲泣の声をのんだのだ」と説明している。

「ジュニア版古典文学 万葉集」の著者は猪俣静彌さん。奈良市の高校教員で、アララギ・柊の会員。なるほど左千夫を引用する訳だ。そして出版した昭和五十年は、茂吉から左千夫を切り離して無視しようとする流れは、まだ起きなかった。

十月十七日(木)
憶良が唐に滞在中
いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ

日本を「やまと」と読むことについて
日本という国号は大化の改新(六四五)のころ制定されたといわれるが、五十年あまりたったころ、遣唐使のひとり山上憶良が、唐にあって(中略)もちいている(以下略)

このあと身内が遣唐使として出航する家族の歌が幾つも続く。
次の話題へ移り
つぎの二首は、麦と粟がすでに栽培されていたことをしのばせる歌である。
垣(くえ)越しに 麦食(は)む小馬のはつはつに相見し子らしあやにかなも
(訳文略)
足柄の箱根の山に粟蒔(ま)きて実とは成れるを会はなくもあやし
(訳文略)
二首とも恋愛の歌ではあるが、序詞の表現に農村の生きた生活がうたわれている。
(中略)肉はどうであったろうか。じつは『日本書紀』の天武天皇四年に、勅命で(中略)「牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食うことなかれ」。食うことなかれというのは、さかんにたべていたことを証言しているともうけとられる。

問題点を赤色にした。ほとんど食べないが、一部で食べる人がゐるので勅命を出したのではないか。例へば今の日本で「米を食ふことなかれ」と法律を作ったら大変なことになる。しかし「玄米を食ふことなかれ」なら、大事にはならない。
万葉人たちの宗教といえば、日本古来の神と、大陸から渡来した仏であった。(中略)『万葉集』に仏教関係の歌がほとんどないのはおどろくべきことである。

仏法用語は、ほとんど漢語である。和歌は和語で作るからではないか。
『万葉集』のなかに旋頭歌は六十余首ある。そのうちの三十五首が「柿本人麿歌集」の歌で、ほかはほとんど作者不明の歌である。人麿の歌集(中略)も、人麿の作歌とは断定できないので、おそらく旋頭歌はすべて民間でうたわれた民謡といえよう。

そして
上の句と下の句をさかさにうたっても内容のとおるものが多い。

旋頭歌を作るときは、そのやうにしたい。
黒人の歌は、人麿の叙景歌のようにさけんでうたうこともなく、また赤人のの叙景歌のように深く自然のなかにしずんでゆく歌風でもない。もっぱら、目にうつった自然と感じた心を率直にうたってゆくところに特色がある。心のあたたかいそぼくな人柄であったことがうかがわれるのである。

小生が、歌を作ることは止観(瞑想)と同じ効果があると主張するのと同じである。
次の話題に入り、序詞は程度でも同音繰り返しでも、序詞と本文の間を流れる共通の感情だとする。それは現代の暗喩に近いが、
「暗喩」という技法で近代の詩人が詩をつくっても、なかなか読者の共感をえることができないのであるが、『万葉集』ではこのように、名もない民衆が理論とか詩の技法などをこえて、おのずから自分の感情を短歌で表現しえている。

序詞は、小生も今後使ってみたい技法である。
あが恋はまさかもかなし草枕多胡(たご)の入野のおくも悲しも
「奥」という語に、入野の奥のほうという意味と、自分の恋のこれからの行くさき、将来という意味がかけられている。

この歌に注目するのは
もともと多胡地方の若者たちがつくり、(中略)やがてつぎからつぎへと(中略)ひろげた恋歌であろう。

よろづはをあららぎ人の解くふみで読めば役立ち心が弾む
(終)

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