二千五百二十一(うた)内山知也「良寛詩 草堂集貫華」
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十月十九日(月)
内山知也「良寛詩 草堂集貫華」は優れた書籍である。内山さんは新潟県柏崎市の出身で、東京文理科大学漢文学科出身。新潟県内の高校教員から、大東文化大学教授、筑波大学教授。
東京文理科大学は、戦後に合併で東京教育大学になり、今は筑波大学である。
漢文が専門なのは飯田さんと同じだが、飯田さんは曹洞宗に適合し過ぎることが、長所であり短所でもあった。その点、内山さんは中立である。良寛和尚に親しみを感じながらも、全国良寛会とは異なる。桂誉章実父説や渡航説に猛反対する人たちである。小生は、二つの説に賛成でも反対でもない。冷静に学術的な進展を望む。
『貫華』という名のつく集は非常に珍しい。(中略)「花輪」とか「偈頌」の意味である。おそらく良寛は「花輪」つまり詞華集の意味と、「偈頌」すなわち宗教詩の意味の両方に掛けて使用しているのではないだろうか。
なるほど、と感服するばかりである。
惜しいことに現在では原形が改められ、冊子の形になっていず、全二十四丁の各丁が一枚一枚裏打ちされている。その上に落丁があって、(中略)この詩集を注解するさいに、その価値があるかどうかと躊躇されたのはこの点である。
この本は、飯田さんの訳注以上に価値がある名著である。とは云へ、飯田さんは渡航説に賛成したために無視する人たちがゐる。平衡を取る為に、これからも飯田さんを応援したい。
草堂集貫華(げ)の本は内山さん 良寛和尚を暖かく 悪意を持たず翻訳し解説をした最高名著
反歌
知(ち)也(なり)さん漢文そして柏崎良寛和尚と二つ繋がる
十月二十日(日)
良寛和尚の、平仄等を重視しない作詩について
その精神の由って来る所は唐代の禅僧寒山の『寒山詩集』である。唐代の禅僧は正確に近体詩を作る人もあれば、白話混りの詩を作る人もあり、寒山のように偈と称する宗教的で変則的な作品を作る人もあった。寒山のように寺院と一定の距離を置いて生活する風変わり僧の脱俗的な詩風に対する評価が禅門の中で高い評価を得るようになり、それが日本にも波及した結果、良寛の詩ができた。
詩だけではなく、良寛和尚の修行法も完成したのであらう。
寒山は浙江省天台山中に在って寺院に寄食していた。良寛は托鉢によって世の中と交わって生きていた。そこに詩の質に相違が出るのは当然であろう。
序の最終には、渡辺秀英さんを
最も御示教を仰ぎ続けて来たのは、県立柏崎中学以来の恩師渡辺秀英先生である。
入矢義高さんは
日本における中国文学の泰斗で、特に禅語録の白話のご研究では他の追随を許さぬ碩学であられる。
飯田利行さんは
母校東京文理科大学の先輩で、中国語音韻学の大家であられ(以下略)
とある。本文に入り
「生涯身を立てるに慵く」の訳を
わたしは生涯ひとかどの人になろうというような気にならず
「慵く」の訳で、ものぐさ、怠け者などと訳す人が多い中で、良寛和尚への心遣ひが現れてゐる。
「行行到田舎」で始まる詩の最終行の訳が
「こんな粗末な食事でよかったら、もっとたびたびわが家を訪ねてくださいよ、良寛さま」と言って。
ここにも暖かさがある。
十月二十一日(月)
「 虫鳴正喓喓」で始まる詩の最後の四行の訳が
いろりを円く取り囲めば、一家全体が春のように暖かい。/この汚れた末世の時代に、ここだけが淳真を保っているとは全く思ってもいなかったよ。
漢文もこのやうな内容だが、訳文は心の暖かさも感じられる。解説に
素朴純真な農民生活に寄せる限りない信頼と愛情を詠う。(中略)物質的欲望のとりことなった町人社会に反省を求めている。
なるほど良寛和尚が托鉢をするのは、町ではなく農村だった。そしてこの詩の特長は、仏法を揚げるのではなく、農村を揚げた
「平生少年時」で始まる詩などを、良寛和尚の少年時だとする本があるが、小生には信じられない。内山さんも同じで
『寒山詩集』では青年の遊興を描きながら、その華やかな日々も短くて(中略)と戒める教訓詩になっている。良寛のこの詩の裏にも教訓を意図していることは言うまでもない。
これは「越女多佳麗」「粲粲倡家女」「白馬遊侠子」で始まる三つの詩も同じである。一つ目と二つ目は寒山詩に類似のものがあり、三つ目は、二つ目の遊女を遊侠に置き換へた詩で
甥の馬之助や島崎の木村元右衛門家の少年など、(中略)良寛が彼等の父親に頼まれて意見したという言い伝えが幾つか残っている。
「珊瑚生海底」で始まる詩について、解説は
「有用看経」の認識のもとに諸寺の高僧を訪ねた若い時と比べて、今は「只管打坐」して、身心脱落の境を求め、自然と一体になっている。この現実こそが最も正しい在り方なのだ(以下略)
飯田さんが解説したのかと思ってしまふほど曹洞宗に特化してゐる。特に、若い時の「有用看経」と、歳を取ってからの「只管打坐」に。良寛和尚は曹洞宗なのだから、当然ではあるが。ここにも内山さんの暖かさがある。
ところが人によっては、良寛は若い頃の熱意を喪失した、曹洞宗では無くなった、僧侶では無くなった、と出鱈目な解釈をする。(続く)へ
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