二千二百九十六(和語のうた)漸悟と頓悟に違ひは無い
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月九日(火)
四度目の飯田利行「良寛詩集譯」で、寒山と良寛は、漸悟と頓悟のどちらでもなく、三学悟だとした。三学悟は、暫定で付けた名称で、漸悟と頓悟のどちらでもないと云ふ意味である。
ここで、漸悟と頓悟に違ひは無い。漸悟は段階を経て悟る。その一つ一つの段階だけを見れば、段階の中が頓悟だ。漸悟と頓悟に違ひを付ける方法としては、デジタルではなくアナログとして悟る。つまり漸悟は、段階を無限に増やす。これなら、漸悟と頓悟は違ひがある。
しかし今度は、漸悟と三学悟に違ひが無くなる。そして、三学悟と同じとは、悟りを目指さないことだ。ここまでくると、神秀の北宗を超える。つまり、達磨から数へて六代目のときに、漸悟の神秀が北宗、頓悟の慧能が南宗に分裂したと云ふことは、そもそもここで云ふ漸悟は頓悟と違ひが無い。違ひがある漸悟とは、三学悟と同じで、それは悟りが無いことでもあった。悟りが無いを易しく云へば、修行の中に悟りがある。
四月十日(水)
悟りを目指さないことは誰でも出来る。しかし組織で上位を目指さないことは、誰でも出来ることではない。否、上位を目指さないことは怠惰で誰でも出来るが、組織からはみ出すことは誰にでも出来ることではない。それをやったのが、寒山と良寛だった。
飯田さんは曹洞宗で出世を目指した訳では無いので、良寛に近いと思ふが、寒山を嫌ふのはやはり違ふのかなとも思ふ。駒澤大学の組織にゐたから、組織をはみ出すことはできなかった。
--------------ここから(歴史の流れの復活を、その四百七十七)----------------
戦前に陸軍参謀次長だった多田駿は、陸軍組織内で出世したが、陸軍大臣になる直前に横やりが入った。ここで粘って東條英機と闘争をすれば、一つ置いた先での東條就任を阻止できたかも知れない。さうすれば、東條が首相になることも無かった。日本にとって重大な損失だった。多田駿は、闘争からはみ出した。後に東條により予備役に編入させられて、陸軍からもはみ出した。
良寛に親しみを持つ人たちは 広さ深さに違ひあり だが生き方を尋ねれば 嬉しきことに似た所あり
反歌
良寛に親しみを持つ人たちは欲深人に負ける惧れが 国滅ぼした
寒山がゐた時代の国清寺は、天台宗か禅宗か不明だ。良寛が国清寺へ行ったかどうかも不明だ。良寛が寒山詩の影響を受けたのは確かだ。良寛がなぜ寒山詩に興味を持ったかは不明だ。
これらを合はせて、良寛は国清寺へ行き寒山詩に興味を持ったのでは、と想像する。(終)
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