二千三百一(うた)大久保良峻「天台学探尋」
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月十日(水)
「天台学探尋」は、中国と日本の天台宗の違ひを知りたくて読んだ。良寛渡航の謎が分かるのでは、と期待してのことである。まづ「はじめに」に
中国天台の仏教は複合性を特色とするのであり、(中略)最澄の仏教は一層その度合いを増した。それは、四宗融合、或いは四宗相承と言われている。円・密・禅・戒の四種である。

さて
智顗(五三八~五九七)が天台教学を講説していた時代は、密教の展開する以前であった。しかしながら、智顗の教学は、『大日経』や『金剛頂経』といった純然たる密教に聯繁しうる要素を種々内包しているのであり(以下略)

日本の天台については、密教のほかに
浄土教の法門である。そこには円仁の業績もあるが、特に良源(九一二~九八五)や源信(九四二~一〇一七)によって本格的な浄土教が擡頭した(以下略)

良寛は、妹が浄土真宗末寺の住職に嫁ぎ、晩年に過ごした木村家が浄土真宗で、浄土真宗とは関係があるが、浄土教の影響は無いと見た。木村家の要望で書いたと思はれる書があるだけだ。
密教については、良寛が居住した国上山は真言宗だが、真言宗の影響はまったく無い。つまり良寛に天台の影響があるとすれば清国仕込みだが、良寛に天台の影響があるかどうかは、現時点では不明だ。
天台の止観と禅の関係は 寒山詩との関係は 良寛につき天台を調べることに楽しみ多し

反歌  寒山は天台宗と禅宗の何れかこれも疑問が残る

四月十一日(木)
第二章は松本知己さんの筆で
慧思の命に従って陳都金陵に出た智顗は、瓦官寺で(中略)後進の指導に従事すること約八年間にして、天台山に隠棲した。その後、隋の中国統一の前後に、『摩訶止観』を含む「天台三大部」の講説を行い、晩年は(中略)『維摩経』に関する著述を行った。

そして
瓦官寺時代(中略)では、『大智度論』に基づき、禅の一語で仏教の諸々の実践を統括する。『摩訶止観』に至ると、同じ構想が、止観の語によって展開するのであり、このことは、智顗の実践理論が、禅から止観へと移行したことを示すものである。

最後の一行はどうか。単に語の言い換へではないのか。
摩訶止観によると
常坐三昧は、『文殊問般若経』『文殊説般若経』に基づく。(中略)常行三昧は、『般若三昧経』に基づく。(中略)半行半坐三昧は(中略)『大方等陀羅尼経』に基づく方等三昧と、『法華経』(中略)に基づく法華三昧の二種がある。

良寛の坐禅は曹洞宗のやり方だから、良寛に天台の影響は無いと見るべきだ。
良寛に法華讃などある故に 天台山の影響があるやと思ひ読み進み 無きが分かりて落胆も 正しき分かり喜びと為す

反歌  良寛は曹洞宗の僧として越後帰国の前も後にも
反歌  良寛が宗派を超えた僧侶へと進みた訳に可能性あり

四月十二日(金)
昨日書いた、良寛に天台宗の止観がまったく無い事について、良寛は無欲で淡白だから天台宗の止観は合はないのだらう。小生も同じで、教義と止観は単純であるべきだと常に考へる。釈尊の時代に、複雑なものが広まるはずは無い。(この考へには欠点があって、釈尊の時代には広まらず、アショーカ王の時代に広まった、とも考へられる)

本日は第四章で伊吹敦さんの筆だ。最澄は「内証仏法相承血脈譜」で五つを掲げる。
a「達磨大師付法相承師師血脈譜」
b「天台法華宗相承師師血脈譜」
c「天台円教菩薩戒相承師師血脈譜」
d「胎蔵金剛(以下略)
e「雑曼荼羅(以下略)

dとeは密教なので、後半を省略した。
このうちの禅は二つの流れを引き継いだ。
日本において師の行表(七二二~七九七)から承けた北宗禅の系譜と、入唐した際に天台山の翛(しゅく)然(生没年不詳)から承けた牛頭宗の系譜である。

牛頭宗は、五祖から北宗禅と南宗禅に分かれるときに、同じく五祖から分かれたものだ。
最澄が『血脈譜』で掲げる系譜は、翛然から受けた牛頭宗のものではなく、
 神秀-普寂-道璿-行表-最澄
と継承されてきた北宗禅のものであった。

渡航前に話を戻すと
最澄は南都で受戒した後の延暦四年(七八五)の七月、突如、比叡山に入り、十二年に及ぶ籠山生活を開始したが、その過程で天台教学に開眼し、独学で学問を積み(以下略)

とは云へ
それは決して「転向」と呼ぶべきものではなかった。入唐求法に際して牛頭禅を相承し、また帰国に当たって多くの禅文献を(以下略)

しかし帰国後は密教に傾く。だから密教とは遠距離の良寛は、比叡山から影響を受けてはゐない。道元は、法華経を熱心に信じた。良寛も、法華転、法華讃の漢詩がある。
良寛は 円通寺では道元を信奉するも その後はあまり言及しなくなり 道元良寛共通の法華経があり 渡航をしたか

反歌  最澄は禅宗により天台宗入るを知りて有意義となる
反歌  最澄は後に密教偏りて戒律軽視未来に禍根
第四章は最後に
後世の日本仏教に大きな影響を残したものに大乗戒の独立がある。これがもともと最澄の高邁な理想主義に発するものであったことは確かであるにしても、(中略)肉食妻帯や寺の世襲を認める浄土真宗のような仏教が生まれ、遂には全ての宗派がそれを認めるに至った遠因はここにまで遡りうるであろう。
(終)

追記四月十三日(土)
第四章にもう一つ、紹介したい内容がある。
道璿は、奈良時代に鑑真(六八八~七六三、七五三年渡来)に先立って戒律を伝えるために日本に招かれた人物である。

一方で
道璿が、(中略)大乗戒をきわめて重視していたことが知られるが、実は、これこそ東山法門以来の禅宗の基本的な立場であったのである。

ここで東山法門とは、禅宗の四祖、五祖の活動した東山のことである。
初期禅宗の基本的立場が、小乗戒軽視・大乗戒重視にあったとすれば、なぜ、道璿は小乗戒を授ける受戒師として海を渡ったのであろうか。実は、これには彼の師である普寂による方針の転換が大いに関係していたのである。即ち、もともと東山法門では、(中略)得度や受戒の有無とは関わりなく付法を行っていたが、神秀が中原に進出すると、他宗の人々の批判を浴びたので、普寂は、(中略)禅を学ぶ前提として戒律を重視するよう指導法を改めたのである。ただし、小乗戒の導入は、他宗からの批判をかわすための方便といった性格が強く、(以下略)

最後の一行「他宗からの批判をかわすための方便」は伊吹さんの私見であり、国家権力による強制がなければ、批判をかわすためだけで導入することはないと思ふのだが。

「良寛、漢詩、和歌」(八十二)へ 「良寛、漢詩、和歌」(八十三の二)うた(八百四十一の二)へ

メニューへ戻る うた(八百四十)へ うた(八百四十一の二)へ