千五百九十(歌) 今回は八冊借りた(飯田利行「良寛詩との対話」)
辛丑(2021)
六月二十七日(日)
今回は八冊借りた。飯田利行「良寛詩との対話」に、NHKで柳田聖山さんが清国へ密航した説を話されたことについて
之則の長詩の中ほどに、
予(きみ)は東都の東にゆき、我れは西海の藩(はて)に到りぬ。
西海は我が土(くに)にあらず、たれかよく 永くここに滞まらんや。
とある。(中略)中国本土を意味したとも推測できる。

土(くに)を故郷の意味だとすると、之則にとっても東都の東は土(くに)ではない。西海だけ我が土(くに)にあらず、と云ふのは変だ。だから飯田さんの説に賛成。次に、良寛は弥彦山の東の儒医山岸有楽斎を良く訪問したが
有楽斎は、若いとき長崎へゆき医術を学び、ついで帰途、(中略)清国の唐琴家について奏法と作曲法を学んで帰郷し(以下略)
さて問題点は、(中略)曲譜付けの詩に中国語を仮名書きに添えた一件である。(中略)詳細は、新潟市の医学博士蒲原宏氏が、「日本医事新報」No.一六九三号(昭和三一年)に発表。これによれば、有楽斎は(中略)朗吟の発音は長崎仕込みであったらしいとのこと、(以下略)

このあと中国音付の詩を掲げ、尾韻はnでなければいけないのに、三文字が唇韻mになってゐる。良寛も、有楽斎と同じで長崎の通事に中国語を習っただけで渡航はしなかった可能性が出てくる。しかし
昭和女子大中国語助教授(中略)夫妻に検討していただいたところ江南は浙江地方の方言ではあるまいかという報告に接した。(中略)改めて『定本良寛詩集訳』の原文に当ってみた。すると三篇にわたって唇舌混淆の押韻例を見ることができた。

このあと、長崎、江蘇省の呉江と花亭、浙江省の何山、湖南の洞庭湖、浙江の廬山に行った詩を紹介したあと、今夕の詩で
(前略)
経年 弧舟 江湖の夢、今夜 洞房 琴酒の期。
(以下略)
過ぎぬる年に独りで行脚して多年の夢を結ぶことができ、今晩は、立派なお座敷で美酒と名琴の御もてなしを受けることができた、と。

渡清を確証づける詩だとする。これまでの書籍で、良寛は渡航して清国の寺院に失望したのだと思った。しかしこの詩で、長年の夢を果たすことができた喜びを感じ取ることができる。
良寛は 仏の国の 途中なる 唐を訪ねて 夢を叶へた
(終)

追記六月三十日(水)
飯田利行さんの「良寛詩との対話」を全部読み直した。「はしがき」に次の記述があった。
私が良寛詩の文学、特にリズムによる美的表現のすばらしさを示唆されたのは、昭和15年のこと。当時の私は、京都で碩学吉川幸次郎先生の助手をしていた。たまたま先生が、良寛詩には中国の俗語が多用され、しかもリズムがある、と。

渡航しなければ俗語を多用できない。

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