二千二百四十七(和語のうた)島内裕子「樋口一葉の世界」
甲辰(西洋未開人歴2024)年
二月十七日(土)
島内裕子「樋口一葉の世界」は、放送大学の教科書で島内さんが担当である。教科書だから、或いは授業担当者が自分の著書を使ふから、と云ふ訳ではないが読むのを止めようと思ったことが二回あった。まづ第一章でここは総論が書いてある。明治期に出版された三種類の一葉全集について、略伝は誰が書いたかなど細かいことばかりだ。しかしこれは決定的な理由にはならなかった。
二番目は第二章の萩の舎以前について
佐佐木信綱と一葉が、松永家で遭遇した可能性もなきにしもあらずであろうと述べるに留める。十四歳という思春期一葉を取り巻く(中略)エピソードとして、渋谷三郎と佐佐木信綱の二人に言及した。
渋谷三郎は、一葉の父が一葉との婚約をまとめた。ところが一葉の母が破談にしたと第二章にはある。第四章では、一葉の父が亡くなると、渋谷が婚約を破棄したことが書いてあり、どちらが正しいかは不明だ。
渋谷は後に裁判官を勤め、早稲田大学法学部部長にもなった。一葉との婚姻がうまくゆけば、一葉は貧困にはならず二十四歳(満年齢)で亡くなることもなかった。尤も一葉が小説を書き始めるのは貧困のためだから、渋谷と破談にならなければ「たけくらべ」はこの世に存在しなかった。
それに対し信綱は、一葉の妹邦子の書いた
松永正愛と申す親類が御座いまして、そこへ裁縫の稽古にまゐつてをりましたが、松永が弘綱先生の御弟子であつたもので、そこへ信綱先生なども御いでになり、親しく御目にかかつて、御話を御伺ひしたやうにいつて居りました
一方の信綱は「一葉女史と当時の歌壇の回顧」に、このことは書いてない。こんなあやふやな情報で、渋谷三郎と同列に扱ってはいけない。否、仮に情報が事実だとしても、たまたま会って話を聞き、相手は覚えてゐないことを、元婚約者といっしょにしてはいけない。
こんないいかげんな内容なので、読むのは止そうと一旦は思った。
二月二十日(火)
第三章には、一葉が歌塾「萩の舎」へ入門し作った歌が載る。第四章では、長兄と父が亡くなり、一葉は落ち込むことが書かれる。或いは渋谷三郎との破談が落ち込みの原因ではないか。斜め読みだが、これは興味を持てさうだ。そこでこの本を、再度読み直すことにした。
萩の舎で一葉の歌は
きのふけふ氷りとけにし池水にはるをうつせる青やぎの糸
心して行(ゆけ)よ舟びとかはミづにうつる柳のミだれもぞする
かげうつすやなぎの糸ハ池水にうかぶ玉も(藻)のこゝちこそすれ
さしのぼる月影きよミわが庭の梅も色香のそ(添)ふとこそ見れ
匂はずハそれともしらじ梅の花あやなくまがふ月の光りに
八一の歌に匹敵する出来栄えである。
たけくらべ歌も優れた一つ葉は柔らか美し調べと写し
萩の舎に入門する前に、和田重雄から和歌の指導を受けた。しかし和田が病気になり三ヶ月で終了した。そのときの歌と、和田の添削は
春風不分所(春風、所を分かず)
おちこちに梅の花さく様見れば / いづこも同じ春かぜやふく
おちこちに梅の花さく頃なれば / いづこも同じ春かぜのふく
因みに小生が変へると
おちこちに梅の花さく時来れば / いづこも同じ春かぜがふく
三人の歌感の違ひを出す為で、和田の添削が悪いとはまったく考へてゐない。それより、このくらいの歌だと、小生も参加しようと云ふ気になる。萩の舎の歌だと、小生には手が出ない。
萩の舎は歌と文とが伸びる時このとき決まるたけくらべかも
二月二十二日(木)
第四章は、まづ長兄が亡くなる。
その一年半後に、父則義が(中略)亡くなって、さらにその一年後の、明治二十三年頃に執筆されたと推定されている。つまり、父の死後になって、それに先立つ長兄泉太郎の死についてようやく書くことができたのである。
父の死で衝撃を受けて、それが収まった後に父の死、次いで長兄の死を書いたと思はれる。父の死後は一葉と母と妹が次兄虎之助の家に身を寄せた。
けれども、虎之助と母の折り合いが悪く、翌年の明治二十三年五月から九月までの半年近く、一葉だけが、「萩の舎」に内弟子となって住みこんだ。
虎之助と母の折り合いが悪いのに、なぜ一葉が出て行くのか不思議だ。小生は、父の死後に渋谷三郎との破談で一葉が落ち込んだのではないかと見た。その根拠として、内弟子時代に書いた「はつ秋風」に
去年、家尊の大人に別れ参らせてより、今、師の許(もと)に仕るべき身と成りぬる(中略)袖濡るる事、いと多かり。
いくら父が亡くなっても、内弟子になってからも「袖濡るる事、いと多かり」は尋常ではない。ならばなをのこと、母や妹と同居すべきだ。渋谷三郎との破談に、母が絡んだことが関係するのではないか。島内さんが書いた
自分だけが母たちと別れて、「萩の舎」の中島歌子の家に身を寄せている辛さや悲しみを書き記したのである。
は見当はずれである。
二月二十三日(金)
第五章では、
小説の執筆によって生計を立てようと志した一葉は(中略)記者で新聞小説を連載していた半(なから)井桃(とう)水に師事した。
これだと、桃水は小説担当記者か、くらいにしか思はないが、桃水は小説を執筆してゐた。一葉が師事を始めたころの二ヶ月が日記「若葉かげ」に書かれてゐる。序文の最後に歌があり
卯の花の憂き世の中のうれたさにおのれ若葉の陰にこそ住め
最初、「卯の花」を自作の枕詞として使ったと喜んだが、既成の枕詞として「うき」に掛かると書く文献があった。「卯の花」を枕詞としない資料のほうが多いが、一葉も知ってゐたのだから既成だ。
第六章以降では、桃水が発刊した文芸誌「武蔵野」に、まづ一作が載る。他の文芸誌や新聞にも載るやうになった。
桃水は、「先方の希望は四十回、三十五回でもよい。二十九日からの連載開始なので、とにかく今夜中に二回分を完成させてほしい」と(中略)母はもちろんのこと、昨日から来ていた次兄の虎之助も大喜びだった。
実際は十五回で終了した。小説は、新聞社、出版社の都合で長いものが好まれる。書く側は大変である。そして
「萩の舎」の人々から、桃水に師事することを強く批判されたので(中略)一葉がみずから辞退した。
此の辺りの事情を詳しく書くべきだ。予想されるのは、一葉が桃水に恋愛感情を持ったことだらう。そもそも第五章では、家族や「萩の舎」の人々から師事の中止を勧められたとある。この本のいいかげんなところだ。このあと、執筆を断るくらい忙しかったが、家計は苦しく一家で荒物屋を竜泉寺町に始める。商売はある程度順調だったらしいが、家計は好転せず、再び文芸活動へ戻ることになる。
たけくらべ文書く技と荒物屋くらべ戻りてつひに世へ出る(終)
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