二千二百二十八(和語優勢のうた)死後に悪く云ってはいけない(石原莞爾、南雲忠一、伊藤左千夫、良寛)
新春前癸卯(西洋未開人歴2024)年
二月二日(金)
ダイヤモンド社のホームページに
能力が高くても力を発揮できないのはなぜか、武田勝頼につく”愚将評”の真実

が載った。瀧澤中さんの執筆だ。このなかに
「能力があり、実績もある」にもかかわらず、愚将と言われる人々。
たとえば武田勝頼だ。「ダメな二世」の代名詞のように言われる勝頼だが、武田家が最大の所領を得たのは(中略)この勝頼の時代であった。とにかく戦いに強い。勇猛果敢で戦略にたけ、徳川・織田連合軍を完膚なきまでに破った三方原合戦でも指揮を執っている。なにより、武田家が惨敗した長篠の戦いから武田家が滅ぶまで7年もかかっていることを見れば、勝頼が「無能の愚将」とは言えないであろう。

ここまで同感。
ではなぜ、勝頼は愚将に分類されるのか。
おそらくは、この長篠合戦から滅亡までの7年間、家中の疲弊に目をつぶり戦いに明け暮れ、最後は将棋倒しのように家臣たちに裏切られたことが要因の一つであろう。

小生は、長篠合戦後に改善をしなかったことが原因と見た。信長は、戦に負けると改善し、次は勝つ。あと、長篠合戦後に勝頼は自暴自棄になったのではないか。七年もあれば、十分に立ち直れるはずだ。
信長は負けると次は必ずや勝ち続けるが 勝頼は負けると次に人が崩れた

反歌  秀吉は負けた将をも家臣としそらみつ大和一つの国へ

二月四日(日)
勝頼の死を知って、秀吉は
「あたら人(殺すには惜しい人)を殺したる事の残念さよ」と、信長が勝頼を死に追いやったことへの批判めいた発言をしたらしい。(中略) 「自分なら勝頼をいさめ、(信長に服従させて)甲斐・信濃二州を与え、関東攻略の先陣とした。そうすれば東国は容易に平定できただろうに」(中略)実はここに、「愚将へ分類されてしまう能力の高い人物」のヒントが隠されている。
それは、「場所を得ていない」ということ。秀吉の言うように、もし勝頼が織田信長の支配下で手腕を発揮していたらどうであろうか。
勝頼は、武田家を単独で維持する器量はなかったかもしれない。(中略)しかしもし織田信長の下で、徳川家康のような客将的扱いを受けていたならば、勝頼はおそらく豊臣政権下の島津義久のごとく、敗将でありながら名将の名をほしいままにしていたかもしれない。

今回この特集を組んだのは、続いて次の一行があったためだった。
「場を得ていない」という意味では、たとえば真珠湾攻撃やミッドウェー海戦で指揮に当たった、南雲忠一・海軍大将もまたその一人であろう。
彼もまた「愚将」と言われることが多い。真珠湾攻撃では第二次攻撃隊を出さなかったとか、ミッドウェー海戦では爆装転換の指示ミスで惨敗した等々。しかし、どうも偏った見方がされている気がするのである(近年の研究ではいずれも評価が見直されつつある)。

小生が五十年くらい前に、南雲を批判する戦史が多いが、これは間違ってゐると思った。真珠湾攻撃時の航空参謀源田実は、第二次攻撃の話は司令部内に出てゐなかったと、戦後に述べた。要は死者を悪者にした。
似た話に石原莞爾がゐる。これは今から十三年前に判った。永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次がドイツのバーデンバーデンで密約を結び、翌日東条英機も合流した。それが一夕会に発展し、満洲占領はその流れだった。それなのに、戦後は石原莞爾が悪いことになった。
もう一つ似た話に、伊藤左千夫がある。これは三年前に判った。戦前の日本は万葉集一辺倒だったが、戦後にこれが崩れた。すると、伊藤左千夫が悪いことになった。
何百里国を離れて満州の石原莞爾 玉光る真珠湾での開戦は南雲忠一 波濤なる歌と万葉アララギの伊藤左千夫と 三人を死者に口無し悪く云ふ主張あるので注意を要す

反歌  欧米の真似で戦の反省を踏まへ築かう戦無き世を
今回の特集「死後に悪く云ってはいけない」は、その流れである。安倍問題は無関係だ。なぜなら、死ぬ前から批判を続けてきた。死後にその人のせいにしてはいけないが、生前から続けた批判は解決するまで続けるのが故人の為でもある。
------------------ここから(モリカケ桜河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト、二百八十三の二)--------------------
今回の記事にも安倍が出てくる。
安倍晋三元総理は、三たび政権を握るつもりがあったのではなかろうか。それゆえに、人望や能力の点で組織をまとめることができない、(中略)そういう中途半端な人材を派閥幹部に据えた。
だから今回の派閥裏金問題が起きたときに適切に対処できず、責任も取れない体たらくになった。安倍氏亡き後も“安倍派”と呼ばれたのは、後を継げるリーダーがいなかったことを明確に示している。
派閥幹部たちは(中略)せめて人間的な高潔さを持っていてほしかった。そうすれば(中略、下記参照)烙印を押されずに済んだかもしれない。

「(中略、下記参照)」の部分には「“愚将”の」が入る。わざわざ略さなくてもよい文字数だが、「愚将」は褒め過ぎなので略した。「愚凡人」が適正水準だ。(終)
(モリカケ桜河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト、二百八十三の一)へ (モリカケ桜河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト、二百八十四)へ
------------------ここまで(モリカケ桜河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト、二百八十三の二)--------------------

------------------ここから「良寛、漢詩、和歌」(七十五)----------------
追記二月五日(月)
死後に、一部の人から異なった評価をされたのが良寛である。江戸時代は宗門統制が厳しいから、勝手に出家したり還俗したりするはずがない。そして良寛が亡くなるまで僧だったことは、確実である。それなのに、良寛は僧ではなく仏法からも離れた、と間違った主張をする人がゐる。
江戸時代は、すべての経典が釈尊の直説と信じられたから、良寛が読経をしないはずはない。また、鎌倉時代に現れた新宗派を除いて、どの宗派も止観(坐禅)をするから、良寛が止観をしない筈もない。それなのに近藤万の書いたあやふやな若い時の記憶を信じて、何もしなかった(浮浪者だった)と間違へる人がゐる。万に至っては、狂人みたいだったとまで云ふのだから、信じてはいけない。

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