二千二百二十七(普通のうた、和語のみのうた)滝野川で仕事
新春前癸卯(西洋未開人歴2024)年
一月三十一日(水)
本日は板橋駅近くの滝野川で仕事があった。滝野川は、六十五歳の再雇用終了後最初に仕事をしたところでもあり、しかも数十回繰り返した。とは云へ、そこに懐かしさが無いのは、冷暖房無しの酷い環境だったためだ。
今回は、きちんと冷暖房があり、しかも二回目だ。昭和の香りの漂ふ商店街にあり、それほど寂れてもゐない。と好いこと尽くめだが、小売店が少ない。
今回の特集は3.5KBを超えられるかが気掛かりだが、板橋駅はかつて一般駅(旅客と貨物の両方を扱ふ)だったことと、近藤勇の墓がある。この二つで超えることはできるだらう。
勤務するマンションのすぐ裏は、木造の民家が並ぶ。商店街も民家兼商店が並ぶ。マンションはここだけかも知れないが、それほど階数は多くなく、周囲と調和する。
商店街昭和の香り漂はす 懐かしい街よく見ると電柱ごとに旗が立つ 店そのものはやや下回る

反歌  きつね塚珍しい名の通りには左と右にお店点在

二月三日(土)
埼京線が出来る前は、池袋と赤羽の間が赤羽線と呼ばれた。赤羽で東北貨物線(現在の湘南新宿線の線路)と、池袋で手貨物線(現在の埼京線池袋以南)と繋がり、貨物列車が走った。
途中の板橋駅で貨物を扱ふためだらうと思ふ人が多いが、途中無停車で赤羽以北と池袋以南を結ぶ列車があった。特に夜間は、この種の貨物列車が多かった。
夜間は、赤羽線の電車が少なくなるので時間短縮のためだが、昼間については(昼間はほとんど無かったが)赤羽駅の配線が関係すると思ふ。赤羽駅は、上り下りともに貨物線は川口方で複線になり、そこまでは東北貨物線と赤羽線の複々線だった。そして側線は無かった。つまり赤羽駅に発着する貨物列車は、どちらかの本線を塞ぐ。入れ換への間は貨物線を走れないから、東北貨物線を塞いだときは赤羽線を経由したのではないか。
板橋駅は、東側に通常の貨物扱ひ所、西側にセメント積み降ろし施設があった。それぞれ本線から分岐し、十条方に東と西側を一気に結ぶ亘り線があった。
埼京線の工事が始まると、赤羽は行き止まりになり、貨物列車は池袋方からのみ往き来するやうになった。板橋と池袋の間で、東武東上線との間に、中線の跡(どちら側にも繋がってゐない)があった。これは東上線の啓志駅へ貨物列車を乗り入れるとき使った跡だらう。
ここまで書いて3.48KBなので、近藤勇の墓が駅東口前にある。赤羽線が不便だった時代が長かったので駅前に残ったのだらう。今となっては貴重な存在だ。墓も史跡として貴重だが、駅前にあることが貴重だ。
近藤は 汚い手にて甲子太郎それを囮に更にまた三人殺し 恨みにて甲子太郎派の銃撃で 負傷の後は活躍が無し

反歌  活躍は体元気が必須にて汚い手では元気引き換へ(終)

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