二千百九十(うた)地元の話題、閲覧注意メモ書き歌(川口の二ヶ所で仕事)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十二月二十日(水)
今週と来週に、川口市内でそれぞれ仕事がある。今週は川口駅の西側で原町だった。
川口の西口側は 駅前を除き始めて歩く街 道幅広き場所多く歩道片側幅あるは かつて用水流れたか又は排水流れるもあり

反歌  川口は鋳物の街が東側田が西側で今双(ふた)宅地
反歌  見沼より枝分かれして川口の田を潤すと昔を偲ぶ
一番目反歌の五句目は「今は東側西側共に住宅」を押し込めてみた。
川口は かつて鋳物の街として全国に名が知られるも 煙の臭ひ今は無く 田も無くなりて住宅のみに

反歌  住宅地マンション目立ち都境を越し一つ目が人気の元か
昔は京浜東北線の東京方面が川口駅を発車すると、或いは浦和方面が赤羽駅を発車し荒川を渡ると、煙の臭ひがすることがよく有った。
川口市電話帳にて 鍛造は八つ鋳物の鋳造は二百六十余りにて 植木三十広い土地にて

反歌  廃業をしても事業を名乗るあり固定電話を持たないもあり
反歌  日本から実業が消え営業や事務職ばかり国が滅びる
職業別電話帳で調べた。
川口の裏にかつては戸田市あり 新幹線の建設で埼京線も開業し 川口戸田は両者表に

反歌  戸田よりはバスで川口乗る人が無くなりしかし乗客増える
戸田の人は川口から乗車しなくなったのに、川口駅は混むやうになった。キューポラの跡地にマンションがたくさん建った。
新幹線東北上越それぞれが 線路を持ちて東京と新宿へ行く計画は 消え四十年既に日が経つ

反歌  東北と上越のほか北陸もあるが線路は上下一組
東北新幹線と上越新幹線が出来たときと比べて、東北新幹線は(1)函館延伸、(2)秋田新幹線、(3)山形新幹線、と四倍になった。上越新幹線も(1)長野新幹線、(2)長野新幹線が北陸新幹線へ延伸、と三倍になった。それでゐて大宮東京間は上り下りが一本づつだから驚きだ。尤も速度を出さないが。
昼休み周囲へ行くと 中小の工場多く鋳物とは別の機械や化学など 環状道をなを超えて 先は荒川土手へと登る

反歌  菖蒲川用水排水水利にて集めた水に水門があり
反歌  横曽根の地名分割原町に元農業の見立ては生きる
反歌  横曽根の神社お祓ひ工場と機械を書くは今も健在
反歌  横曽根は西川口の駅のほかビール工場かつて浮間も
大正十五年荒川の流路変更により、大字浮間が東京府北豊島郡岩淵町へ分離した。
中小の企業多くはマンションに 一部残るは土地の値が安いが故に 都内に勝る

反歌  中小と大手に違ひかつて無しプラザ合意の悪現象に
プラザ合意が、日本の産業と社会を破壊した。
川口は倉庫運送機械など 戸田は印刷 それぞれが東京都内と異なりて日本支へる産業があり

反歌  川口と戸田はオートに競艇が荒川大橋戸田橋もあり
本日勤務した現場は
ナショナルとオーチスの名を併記するエレベータに年季を想ふ

今までに、東洋オーチス、日本オーチスは見たが、ナショナルと並記は初めてだった。

十二月二十五日(月)
本日は二ヶ所目の川口市内だ。蕨駅から東側へ行くと、斜めの道がある。花壇の中央分離帯があり、かつての農業用水を道路にしたので、幅に余裕があるのだらう。少し北側にも水路があり、こちらは今でも開渠だ。深いので排水路、花壇の通りが用水路であらう。排水路は雨が降ると使ふので、今でも開渠だ。
駅からは近き所で 川の跡斜めに走る道となり 見沼の流れかつてここへも

反歌  やや離れ水を捨てるの川もあり田を潤してここへと落ちる
地図で調べると、排水路は堅川だ。前に調べたことがある(関連情報)。
芝川が荒川と合ふ地点では 岩淵よりは下流にて 隅田川へは流れずに 川を下りて鐘ヶ淵 ここも水門あるために 一部の水は隅田川へと

反歌  堅川は芝川へ入り荒川にすべての水は東京湾へ(終) 

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