千三百二 1.見沼代用水西縁、高沼用水、六ヶ村用水、2.十連休日記
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月一日(水)
二週間前の金曜日、会社から帰宅の時にいつもと違ふ道を歩いてみた。笹目用水跡と思はれる桜並木と、その先の桜並木跡(十年以上前に偶々桜並木を切る作業に遭遇し、話を伺ったら毛虫などで住民から苦情が出たとのことだった)を歩くと、文蔵川と平行し道は狭くなり、空はかすかに明るさが残るのみで、唯一の光源は川の反対側からの民家と街灯となった。足元が真っ暗だから普通は引き返すところだが、かつて自転車で走ったことがある。川の塀から30cm外側を歩くと滝の音が聞こえ、まもなく笹目用水が文蔵川に放流する地点になった。今回はかなり遠回りになった。
翌日の土曜に、辻用水を川口市大字小谷場元西福寺前分水口まで遡り、ここから新曾用水を下り笹目用水との分岐点に至った。新曾用水はここから下流は水が流れず、すべては笹目用水に流れる。ここまでと、ここから下の笹目用水に分水は無いから、つまり元西福寺前分水口から下流は排水先確保のためだけに存在する。
それなら辻用水に流したほうがよい。辻用水は浦和市(当時)へ移管し親水公園に改築し、鯉などもゐるのに水が流れないため、わずかに流入した家庭雑排水がとごろどころに溜まる。鯉の死滅も時間の問題だ。
五月二日(木)
本日は用事があり、南与野まで行った。前回は埼京線で往復したが、今回は往路を歩くことにした。Suicaの残高が260円で往復の分はない。チャージするのにJR東は最低が500円で、私鉄みたいに10円単位に設定できない。往路は高沼用水東縁に沿って少し歩いた。流れはわずかだが水が澄み、メダカの大群がゐる。辻用水もかう云ふふうにすればいいのに、と思った。
暫くして東縁は鉄道の高架を潜り東縁に沿ふ歩道が無くなる。ここから先は一般道と一部を鴻沼排水路に沿って歩いた。南与野駅に近づくと、高沼用水西縁沿ひの農地に出会った。「河童の森」として整備されてゐる。昭和五十年頃までは、このやうな風景が見沼代用水沿線のいたる所に見られた。
このあと家電量販店に行った。かつてのサトームセン鶴見店と同じで活気がある。サトームセンは南浦和文蔵店もあった。まさかヤマダ電機に吸収されるとは夢にも思はなかった。
帰りは「河童の森」から西縁に沿ひ下流に向かひ、水門跡が2つあった。横に付くのではなく本流と平行する。途中で暗渠ののちは鴻沼排水路と暫く平行に歩いたのち別れた。
五月三日(金)
十連休日記を列記すると
四月二十七日午後 築地本願寺で仏教文化講座
四月二十八日 なし
四月二十九日午後 明治神宮会館で昭和の日式典
四月三十日午前 エアコン見積もり
五月一日午前 「剣璽等承継の儀」「即位後朝見の儀」をテレビ、そのあとインターネットで前日の現上皇様「退位礼当日賢所大前の儀」「退位礼正殿の儀」
五月二日午前 高沼用水経由で家電店、午後は京都東寺をテレビ
これ以外(二十八日全日、その他は半日)の時間はパソコンでWebページを作った。
五月四日(土)
本日は見沼代用水西縁を上流に向かひ、六ヶ村用水を下流に行かう。さう予定を立てた。辻用水跡の親水公園を上流に向かふと、何と水が流れてゐる。散歩の人に尋ねたところ三日ほど前にはこの水位だったさうだ。鯉が数匹ゐたのに見えなくなった、と探してゐた。水が流れるやうになった理由は、二つ考へられる。
一つ目は、親水公園なのに水が流れず、しかもところどころ家庭雑排水が流れ込むのはまづいと、さいたま市役所も気付いた。
二つ目は、昔は田植ゑの時期になると毎年、水量が増えた。しかし今は下端部から田圃が無くなったから、二つ目ではないだらう。
川口市大字小谷場元西福寺前分水口に行ったところ、正解は一つ目だった。そのまま上流に向かふとかなり歩いて東京外郭環状道路に至る。用水路は道路を越えるが再び戻って来るので、水路と別れて外環道路をそのまま進んだ。いつまで経っても水路が現れない。スマホの地図で調べるが、ほとんど判らない。地図が小さいと水路が表示されない。地図を拡大すると表示範囲が狭くて全体位置が判らない。何回も試してやっと、もう少し先だと判った。
芝川を伏越で潜り、西縁の幅を半分以下に減らしたときに出来た花の公園で草刈りをしてゐる人に尋ねたところ、水量は先月末に増えたさうだ。天台寺院の下を右に折れ、六ケ村用水の分流に到着した。今回気付いた事は、戸田用水、新曾用水、辻用水は分水口だ。つまり水門で横から取り出す。それに対し、六ケ村用水は本流の真ん中にコンクリート壁があり数メートル平行に流れたあと取り出す。だから本流にも水門があり大掛かりだ。
今から十五年くらい前までは合口二期事業の看板があった。今はまったく水が流れない。否、六ヶ村用水を見ると少量の水が流れる。少量でも水を流せばいろいろな動物が棲める。辻用水みたいにまったく流さないと、長い水路のあちこちに雑排水の部分ができる。
旧芝川の浄化対策で、芝川の水を六ヶ村用水に流し、緑川、堅川経由で旧芝川に流す看板があり、今はかなり剥げてしまった。今回も水はながれてゐなかった。暫く下流に歩くと、藤右衛門川を伏越で潜る。このまま六ヶ村用水を下ると帰るとき大変なので、藤右衛門川に沿ひ歩くことにした。br>
少し先に明花落しがある。見沼代用水西縁の方角から来るので余水吐かと思ったが、家に帰り調べると河川が西縁の下を潜る。藤右衛門川に沿ひ更に歩くが、水が少なく浅い。道端の地蔵の説明石で、藤右衛門川暗渠による親水路だと判った。このあとさいたま草加線に沿ひ歩いた。外環道路が出来る前は二車線とは云へ幹線道路だったが、今は交通量が少ない。
帰路は外環道路を越えてみた。見沼代用水はどうせ戻って来るのだから通常は外環道路で短絡するのだが、たまに珍しいことをすると新発見がある。開いてゐる水門を見つけた。今までは元西福寺前が最下流だったが、この分水から水を引く田はもはやなく、余水吐の機能しかない。とはいへ水門が開くのに流れる水量は僅かだ。この辺りから上流を仰ぎ見ると森が見える。此の森と天台宗の高台寺院が昭和五十年代の後継で一番印象に残る。空が急変し雷の稲光が見えるので、この先の外環道路で家に急いだ。
五月五日(日)
今朝は辻用水跡(今は親水公園)を中央排水路まで下り、中央排水路を上流に向かった。辻用水は旧国道までが元は見沼代用水土地改良区の管轄で、今でもここまでは水路、その先は暗渠で上が親水の小川だと思ってきた。しかし旧国道の20mくらい先の南高校通りまで水路だと初めて知った。南高校は「赤き血のイレブン」(昭和45年)のモデルとなった高校だ。
かつて釣り堀のあった池は埋め立てられ公園になった。その先は、小川の送水ポンプが入ってすぐのやうだ。水流の先端に追ひつき、そのまま追ひ越した。中央排水路に至り、辻用水の排出口はけっこう水量がある。旧国道附近がよどんで見えるのは深さがあるためだらう。
中央排水路の上流に向かった。途中で浄化用水の出口に遭遇した。帰宅の後インターネットで調べると、中央排水路(今では笹目川と呼ぶのが普通)、菖蒲川、上戸田川に荒川の水をポンプで送るさうだ。しかし水は流れてゐない。旧芝川と同じだ。
ポンプで送水して浄化することは嫌ひだ。その理由は、わずかな環境改善と引き換へに、化石燃料消費で地球滅亡を早める。そのことに気付いたのは十五年ほど前に、横浜市鶴見区内の入江川で下水処理水送水管再生作業を見てからだ。横浜市役所のホームページによると
神奈川水再生センターから窒素・りんの除去率の高い高度処理施設で処理し、さらに砂ろ過およびオゾン処理した後に送水しています。
うちの二人の子も幼稚園のころから、ザリガニを採りに行ったり、犬が水浴びするところを見たり、入江川を見て育った。数年後に再生工事を行ふと云ふ。私は休暇を取って会社を休み、作業を見学した。よほど水路が好きなんだな。小川に土嚢を積み薬品を入れる。何をするのか尋ねたところ、送水管に微生物が付着して詰まったため、塩素を流すさうだ。その間にザリガニや魚が死滅するため、水溜を作って塩素中和剤を入れる。
その作業を見て思ったことは、ザリガニや魚は送水管があるから棲息する。ポンプを止めれば死滅するだらう。地球温暖化と引き換への、砂上の楼閣だった。
五月六日(月)
昼食後に血糖値上昇を抑へるために、昨朝と同じ経路で辻用水跡を終端まで下り、中央排水路を本日は最上流まで行った。途中で西側から雨天時に合流する二つの排水口の周りが汚濁してゐる。下流側の排水口は周りに油が浮く。上流側の排水口は汚濁はしてゐるものの附近に何匹か鯉がゐる。
その上流である程度の流れがある。水も汚濁はしてゐない。中央排水路の上端は水門があり、おそらく雨天時に下水を放流するのだらう。その近くに円形の排水口があり、一か月ほど前に見たときは、勢ひよく出て来る水が突然止まった。貯まるとポンプが働くのだらうか。本日は中央排水路に沿ひ下流から歩く間、水流があったから20分以上放出が続き、いつ終はるかは不明だ。武蔵浦和駅前のマンション群からの下水処理水だと想像したが、よく考へると下水処理地域でそれはあり得ない。ADEKAの研究所があるから、ここからの排水か。
帰宅後にインターネットで調べると汚濁した二つの排水口は別所排水路と沼影排水路らしい。前者は別所沼からの排水だからきれいだと思ふのだが、二つの排水路は雨天時に下水の余水が入るのだらう。(終)
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