千三百七 見沼下流域の用水路と排水路
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月十六日(木)文蔵川
見沼下流域は、昭和四十年代の後半までは一面の田圃だった。それが今では完全に宅地化されてしまった。田圃の時代は用水路と排水路があった。二種類あることを知らない人が多いため、Wikipediaに間違ひが目立つ。例へば「文蔵川」は
埼玉県川口市小谷場にて
見沼代用水西縁から分水し南西に流れる。東北本線や浦和電車区の線路をくぐり、しばらくは国道298号(東京外環自動車道)の下を流れ、川口市芝富士の北西部で開渠になる。新曽用水などと交差し、戸田市下笹目で笹目川に合流する。コンクリート護岸の水路である。竪川を分水している。
間違った部分を赤色にした。東北本線の短い鉄橋の下を流れる用水路と排水路は多い。だから混同したのだらう。見沼代用水西縁から分水するのは用水路だ。それに対して文蔵川は排水路だ。見沼代用水西縁から分水したものが新曽用水と交差する筈がない。新曽用水は見沼代用水の分水なのだから。
文蔵川は鉄橋の下をくぐったあと上に蓋をした歩道になってゐるので上流に向かふと、2つに分かれ、一つはふたたび鉄橋をくぐって浦和女子高校のあたりで消滅する。もう一つは北に向かって消滅する。どちらも高台からの湧水或いは雨水が水源だと思はれる。
かつては豊富な水量が常時あり田植ゑの季節を除いて、文蔵川の水が辻用水に逆流するとともに上流にも逆流して西福寺前分水口から新曾用水にも流れた。つまり田植ゑの季節を除き、辻用水の全量と新曾用水の一部は文蔵川の水だった。田植ゑの季節は見沼代用水から大量の水が流れるため、辻用水に流れるとともに、文蔵川にも余水として流れることは前に書いた。
文蔵川にかつてあった水量は、南浦和団地の下水処理水だと思ふ。この辺りに流域下水道が完備したのは昭和五十五年頃で、このころ辻用水と文蔵川を結ぶ水路が廃止されるとともに、文蔵川から水量が無くなった。

五月十七日(金)堅川
水路に興味を持ち、散策する人は多いやうだ。そのうちの何人かがブログを書いてゐる。その一つに、堅川を蕨駅の東北から鉄橋で西北にくぐり、暗渠をたどって芝園団地の西からグルメシティの駐車場で判らなくなり、しかし前方に文蔵川が見えてそこまで行くと、壁面にくぼみがあるからここから分水したのだらうと推定する。
このブログの文蔵川とは新曽用水のことで、用水路と排水路があることを知らないから混同が起きた。次に、蕨駅の北側で線路を超えるのは戸田用水で、戸田用水からの分流をグルメシティまで遡ったかも知れないし、排水路はあるのだがグルメシティが終端かも知れない。新曽用水のへこみは伏せ越しの跡かも知れない。この人はインターネットで文蔵川の分水と云ふ記事を見つけ、その前提で調べたとある。
今の時点では、文蔵川の分水ではないと思ふ。堅川は今は枯れたであらう自然湧水を源流とし、小谷場排水を合流すると推定するのが一番あり得る話だ。
別の人のブログで、堅川を緑川方面から遡り、蕨駅北東で線路に沿ふ暗渠を堅川の上流だと最初は勘違ひしたと云ふものもある。戸田用水は昭和五十年代は水路で、田植ゑの時期になると水量が増え釣りをする人の姿が見られた。これは辻用水も同じで、水量が増えると釣りをする人が現れた。戸田用水は、三人目のブログによると鉄橋をくぐたあと桜橋通りと柳橋通りに出て、桜橋通りを進むと要害(ようがい)通りと名を変へ、さらに進むとまた二つに分かれるので左に進むと南小学校横を通り緑川に合流とある。

五月十八日(土)戸田市役所の資料
戸田市役所が河川の汚染状況を発表したものがある。取水地点に(5)菖蒲川水系SY-28水路の氷川橋があり、新曽の灌漑用水の最下流と説明がある。地図で見ると笹目用水の最下流のやうだ。
(6)菖蒲川水系SY-10工業用水ポンプ場南は、見沼代用水からと説明があるが、地図で見ると新曽用水の末流らしい。ポンプ場横で暗渠から地上に出て、くの字形のあと再び短い暗渠に入る。この地点に行ってみると、暗渠は円形で直径50cmくらい。水は流れてゐないが、雨天のときは流れるのだらう。
(7)菖蒲川水系SY-5新曽柳原住宅東は、新曽の灌漑用水と説明があり、市役所添付の地図では(6)の下流だ。つまり新曽の灌漑用水とは新曽用水のことではない。

五月十九日(日)川口市立文化財センター郷土資料館
川口市立文化財センター郷土資料館が一年半前に「母なる芝川」展を開いた。そのときの資料によると「芝川右岸の排水をめぐる争い」に
堅川(芝村悪水)
(前略)一説には、雨が降った後、急激に水量を増した流れは暴れる竜のようで(中略)竜川の名が起こったといいます。(中略)両岸に堅川堤、東側には六ヶ村用水(緑川)とその堤が築かれていましたが、双方の堤は芝村側が低くなっていました。(中略)下流の村々と堤の高さや、堅川の管理の仕方をめぐって争論になっていました。

なるほど日照りのときの水争ひのほかに、大雨のときの排水の争ひもあった。

五月二十一日(火)平成二十五年蕨市議会の議事録より
平成二十五年の蕨市議会で、次の答弁があった。
都市整備部長  私からは、3番目の見沼代用水の本市錦町地内部分の埋め立て構想についてのご質問にお答えいたします。
 見沼代用水は、耕作者として水利権を有する組合員で組織され、見沼代用水土地改良区によって管理・運営されており、また、見沼代用水協力協議会は、蕨市を含めた流域に関係ある14市2町及び見沼代用水土地改良区で構成され、用水路の清浄化と維持管理について相互援助協力することを目的に設置されております。
 錦町地区を流れる見沼代用水新曽用水水路敷の土地は見沼代用水土地改良区が所有しており、その水利権を有する組合員は現在でも蕨市、下流の戸田市にいらっしゃることから、蕨市において埋め立て等の事業を実施することは非常に難しいと考えております。

これはよいことだ。将来、この辺りが再び田圃になるかも知れない。そのとき役立つだらう。田圃が宅地になることばかり考へてはいけない。

五月二十二日(水)北戸田駅東口の二つの水路
北戸田駅東口の駅前広場右手1本目と2本目の道路の中間に長さ50mくらいの小さな幅の水路がある。水は底のほうにあるが普段は流れない。大雨が上がって数時間後に観に行ったところ、底の泥の高低差でわずかだが段差を水が落ちてゐた。つまりここは水路として下流が繋がってゐることを確認できた。
その更に1本右の道路から入ったところにくの字型の水路が120mほどある。工業用水ポンプ場横の三叉路が二つ繋がった交差点から下を覗くと、こちらは上流からある程度の流れがある。ここは上流、下流が繋がってゐることを確認できた。ここの上流は暗渠を経て、区画整理された住宅用地に入る。右横の道路でアスファルトの色が異なる帯が繋がり、上流の新曽用水に接続するに違ひない。
昭和40年代の地図を見ると、中央排水路(今は笹目川と称する)の東側には二本の水路が北から南に走る。笹目用水、新曽用水が東から右で、中央排水路は北から南だから、この二本も排水路だと想像するが、地形の関係で用水路が南下するのかも知れない。一本は今の上戸田川の位置だから排水路だが、もう一本は今となっては判らない。(終)

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