二千百八十九(うた)東京湾の埋立島々
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十二月十九日(火)
日曜に行ったのは、大井ふ頭の手前で勝島だと判った。地図で調べると、埋め立て地はすべて島だ。
品川と大井大森蒲田まで まづ沖合に港南と天王洲あり 陸が出て 勝島及び平和島昭和島まで陸の沖 北へ戻りてその沖は品川ふ頭大井ふ頭 城南島は小島にて大井ふ頭と今続き 京浜島は単独で 羽田空港巨大にて大井ふ頭と一位を競ふ

反歌  勝島と平和島ではそれぞれの南を陸と埋立て繋ぐ
反歌  城南島大井ふ頭と別の島北を埋立て半分繋ぐ
「陸が出て」とは、天王洲の南は海を隔てて陸地が東にせり出す。その南は海を隔てて勝島になる。「南を陸と埋立て繋ぐ」とは、北は水路として残し、南側は埋め立てて公園にした。

モノレールは天王洲と陸の出た部分と勝島のそれぞれ東端頭上を走る。インターネットで調べると、用地買収を避けるため海上に建設したとある。そのため建設費が高くなり、浜松町から羽田までの運賃は高額だった。
そのため経営危機になり、運賃を値下げしたり日立運輸と合併した時代があった。日立の家電店に「日立運輸東京モノレール」と書かれたトラックが来るのを見たことがある。後に経営が安定して日立運輸の子会社になり、更にJR東日本の子会社になり、JR東日本が鉄道で羽田空港まで乗り入れる頃には、また変化するだらう。
羽田へのモノレールには 秋津洲高度経済成長と共に歩むの歴史あり 東会社が鉄道も開通のとき 各島と陸とを結ぶ通勤の経路となりて未来へ繋ぐ

反歌  羽田へはかつて都バスが今京急電車とバスにあとモノレール
羽田空港の国際線が台湾だけだった時代に、国際ターミナルを利用したことがある。小さな建物だったが、国際線にはお似合ひだった。その後、成田からこれほど多くが移るとは、当時は想像ができなかった。
鉄道が羽田空港まで開通したときに、モノレールは通勤通学用になるだらう。これだと昼間が空いてしまふ。JR東の蓄積した知識が生きるときだ。間違っても売却してはいけない。

埋立島々には青海、有明辺りがある。あの埋め立て地は長方形なので、島の集まりの印象はないが、地図で見ると島々だ。かつて何も無いところに道路だけがあり、都バスが走った。後に都市博覧会が中止になり、更にその後はあっと云ふ間に開けた。ところが暫定施設として借地期限が切れて閉館した。
丁度小生が結婚したころと重なるので、一瞬だった気がする。まづ妻と船の科学館へ行った。次に都バスに乗ると、何も無いところを走った。後にビルや商業施設や遊園地ができた。妻や子供が遊びに行った。そして閉館した。
お台場と船科学館まづありて 次にお店や遊園地 次々出来て繁盛も お台場残し姿を隠す

反歌  科学館機関と操舵レストランだが最高は連絡船か
機関とはディーゼルエンジン、操舵は操舵室、だが係留された青函連絡船が断然一位だ。(終)

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