二千百二十四(うた)伊藤宏見「斎藤茂吉と良寛」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十月十一日(水)
伊藤宏見「斎藤茂吉と良寛」(昭和五十九年)を読み始めた。伊藤宏見さんは、英文学が専門だが、横浜良寛会会長。歌集二冊。伊藤さんが同人として加盟する歌誌の主催者に赤彦についての著書があるので、アララギ系だと思ふ(10.14追記、下記を読み進むうち違ふことが分かった)。
茂吉は、良寛の「わが園に咲きみだれたる萩のはな朝な夕なに散りそめにけり」の一首を紹介して、(中略)「良寛のこの歌は、単純であって、そして充ちてゐる。(以下略)」

小生が思ふ、充ちた原因の部分を赤色にすると
わが園に咲きみだれたる萩のはな朝な夕な散りそめにけり

この書籍は、読み進むのが楽しみだ。

十月十二日(木)
まづは「良寛和歌集私鈔」だ。
(一)この宮のみ阪に見れば藤なみの花のさかりになりにけるかも

伊藤さんは
(前略)大抵の歌人なら、つまらないといって抛りだしてしまいそうな(以下略)
茂吉の偉さは、アララギの他の歌人と異なって、広くものを吸収していることである。

小生が佳いと感じる部分を赤にすると
この宮のみ阪に見れば藤なみ花のさかりになりにけるかも
次に
(一九)月読のひかりを待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに
(前略)万葉の影響が指摘されて左千夫の絶賛以来ひどく有名になった歌である。

茂吉は
「『月読のひかりを待ちて』とは何でも無い様で中々言へないと思ふ。(以下略)」

同感。
(二一)足びきの国上の山の杉かげにあらはれ出づる月のさやけさ
茂吉云う、「強いて難を云へば、技巧が単純でゐながら一首の調べが少しく滑か過ぎた為め、聊か俗人の歌のにほひが漂ひかけてゐる点である」と。

伊藤さんは
気になる所は、言わずもがな「聊か俗人の歌のにほひが漂ひかけてゐる点である」という件である。
なるほど、そうもいえるのであろうか。だが良寛の心はそんなものではないことを茂吉は知っていなければならない。茂吉が「俗人の歌のにほひ」というのは(中略)「あらはれ出づる月のさやけさ」のあたりにあるのであろう。(中略)それでいて、この一首はよい歌なのである。即ちリズムの快調さはなお捨て難いのである。

小生は、茂吉に賛成。伊藤さんは「あらはれ出づる月のさやけさ」を挙げたが、小生は「あらはれ」と「出づる」が重複、「さやけさ」は抽象的で陳腐だと思ふ。
宏見さん 茂吉を論じ賛成と反対部分あるものの 小生もまた二人には賛否あるので二掛ける二へと

反歌  佳し悪しは歌の好みと歌論が人それぞれで異なる故に

十月十三日(金)
次は「「良寛和歌集私鈔補遺第一」に入り、伊藤さんは
万葉人の質朴、無垢とはやはり良寛は異なっている。すでに良寛は精神的な敗残者であるからである。

伊藤さんは、横浜良寛会(今は無い)の会長。そして各地の良寛会を統合する形で全国良寛会があり、良寛を敗残者だが立ち直って慕はれた隠遁者と見る傾向にある。小生は、幕府の寺社政策からはみ出した優秀過ぎる僧と見る。
茂吉は
「良寛に言及する人が予のやうに他国人(越後人でないもの)の間にもあらはれて来てゐる。また良寛の歌を模倣するものも出来て来た。(以下略)」

良寛が広まったのは、明治時代後期または大正時代だった。 「茂吉独語抄」では
「真淵は、人麿、赤人、憶良あたりから、人麿以前の作者を尊敬し、歌はこせこせすることを避けて、単純に豊に純粋にゆくことを欲したのであつたろう」

一方
「しかし、左千夫や赤彦などになると、晩年になるに従つて、作風が単純化し、良寛の歌や宗武の歌を対象として、その単純化の妙味を鼓吹するやうになり、赤彦も亦その実作に於て、『みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月のかげ波にうつろふ』のやうな歌を作るに至つた。」

また
「実際あの時分、晶子の歌集を読んで、子規の歌に移れば、あまり単純・平淡で物足りないこと、夥しいと告白する人々が多かつた(以下略)」

「良寛和尚の歌」は昭和二十一年に書かれた。
戦争をはさんで、茂吉の良寛感(中略)に変化があったかどうか

このころ「万葉追放」と云ふ言葉が出現したと云ふ。茂吉としては
「(前略)万葉集も古今集も新古今集も、或は人麿も貴之も定家も西行も、真淵も景樹も曙覧も元義も歌壇から没却し去るべき人物ではない。(中略)僧良寛も亦それに漏れないであろう」

歌に入ると、まづ
ひめもすに待てど来ずけり鶯も赤き白きの梅は咲けども
から始める。「(前略)『赤き白き梅』といふところを『の』を入れて調子を取つている」とのべ、「良寛はなぜかういふ用ゐ方をしたかといふに、大体万葉集の歌を学び、万葉調の歌を作ったから」

次は
薪(たきぎ)こりこの山かげに斧とりていく度か聞くうぐひすの声
「(前略)かういふ歌は大体古今調と考へてよく、この種類が寧ろ大部分を占めてゐると思つてかまはぬ」と、いままで、万葉調の歌人とのみ良寛をみて来た茂吉の良寛観が大分かわってきたのである。


十月十四日(土)
「良寛和尚の話」は大正十四年の講演で
茂吉が特に掲げていてめずらしと思ったのは
秋かぜに靡く山路のすすきの穂見つつ来にけり君がいほりに

の一首をほめている。
確かに佳い歌だ。
むらぎもの心は和ぎぬむながき日にこれのみ園の林を見れば
(中略)茂吉の評言は、「徹した歌だ、実にいい・・・・・島木赤彦君等もこの辺に行きつかうとして努力してゐる」

これについて伊藤さんは
茂吉より赤彦が先に良寛の資料を本格的にみているのである。

良寛の歌の特色を、茂吉は
一、良寛の歌は一口に云ふと自然に流露したうただ。実際の作歌はなかなかかうはいかない。
一、良寛のうたは余り目的を顕はに出してゐない。極めて我儘に自由に書いて勝手なことを云つてゐる良寛の歌を見るとゲーテの云つた、自然の中に神を見ると云ふ様に、自然の一分子たる自分は神だと云ふのであり、完全無缺の神そのものには何等の目的はない。
一、自分は曾て、独言の歌をとなへた。良寛の歌を知らない前、読者を歌中におかずによむものだと云ふことを思つた。作歌等は人に読まれるつもりでよまない方がよい。

これは尤もだ。小生も意識はしないが、この三つに従ふ。
「良寛の万葉調」では
「良寛の万葉調はほがらかでこだはりがない」とのべる。「鋭く強く荒くといつたやうな調子のものではないが、大体からいつてやはり万葉調だといふことが出来る」

これについて
あきの雨日(ひ)に日(け)に降ればからごろも濡れこそまされ干るとはなしに
さす竹の君がすすむるうま酒にわれゑひにけりそのうま酒に
(中略)「これもまた万葉調であるが、全体がすらすらとこだわることなしに運ばれて居る。然らば古今集以下の調子かといふに、さうではなくて、やはり全体として軽く辷つて行かないといふ重厚な点があつて、万葉調の呼吸を伝ふるものである。」

「良寛の歌に就いて」で、茂吉の論争好きが過ぎることを指摘したい。
世の中にまじらぬとにはあらねどもひとりあそびぞわれはまされる
(中略)「ひとり遊び等の造語は実にいいではないか」とのべたことに関して、相馬御風が(中略)造語と見たのは誤りである。これは実は越後の方言だからである。

それに対して茂吉は
『ひとり遊び』といふ語は普通用ゐる日本口語と看做していい。良寛がそれに新鮮で微妙な語感(中略)短歌に用ゐたのであるから、僕は『造語』だと謂つたのである。

これは茂吉が変だ。『ひとり遊び』が普通用ゐる日本口語なら、茂吉は「新しい使ひ方」「詩的な使ひ方」などと云っただらう。
「古今集の古調」では、冒頭で伊藤さんか
茂吉の万葉観を具体的に知る上むにも、また晩年の茂吉は必ずしも所謂万葉調そのものではないのであるが(以下略)

と述べる。ここで昭和二十年の敗戦は、明治維新と同じくらいの影響を日本に与へた。アララギ派の人たちにも、かなり影響があったはずだ。小生は、左千夫の評価がなぜ昭和五十年辺りから偏向したのかを調べるうちに、そのことに気付いた。「古今集の古調」は昭和十八年に書かれたので、その影響は無いが、伊藤さんはその萌芽を期待する傾向にあるやうに思ふ。だから
茂吉は元来古今集にはくみしえないアララギの歌人でありながら、(中略)理由を述べている。われらからすれば、われらからすれば、奥歯にものがはさまったようなもののいい方である。

とする。その前に
古今集の歌は惣じて(中略)『たわやめぶり』だけれども、作者不詳の『読人しらず』の歌には、流石に古歌も多い(中略)子規すら(中略)大歌所御歌や神遊歌や東歌を否定し得ないのであった。」
歌に入り
春日野は今日はな焼きそ若草の妻も籠れりわれも籠れり
については、「(前略)何となく古雅で且つ情味も豊かである。」

結論として
「万葉集の歌から、此等の歌に移つて味ふと、何となく物足りぬものがあり、厚みと重みとに不満な点が感ぜられ、万葉調の歌の衰へてゆく経路をも示して居り、また大体民謡系統のものが多いことを感ぜしめるのである。
それにもかかはらず、古今集中の有力な作家(貫之以下主潮流歌人)の歌などに較べると、古樸のうちに清いひびきを持つてゐてまことになつかしいものばかりである。(以下略)」

「山家集私鈔」に入るが、茂吉には「良寛和歌集私鈔」など一連の私鈔と同じで、本人の抜書き帳である。この「山家集私鈔」は
他の私鈔と比較すると何分にも小規模なもので(中略)この点は残念ではあるが、(中略)『良寛和歌集私鈔』よりも一年半ほど早い

つまり大正元年である。小生は「小規模」に安堵した。その理由は西行の歌によいものは稀にしかない。一方伊藤さんは残念だと云ふ。茂吉及び小生と、伊藤さんは、真逆の立場である。
アララギ系の歌人には、西行に誤解をもっていた。(中略)その一つの理由に(中略)『小倉百人一首』なるもの(中略)の一首が、西行理解へわざわいをなしたと思われる。

それは絶対に無い。西行の歌集を読んで判断したはずだ。伊藤さんは、このあと文明の言葉を切り抜きで引用するが、伊藤さんの偏向ぶりに驚く。因みに小生は、アララギとは意見が異なる。それでも伊藤さんを批判したくなるのは、丁度小生は左千夫に賛成も批判もあるが、後世の茂吉の後継者たちに左千夫との関係を消滅させたい人がゐるので、左千夫に肩入れするのと同じだ。

十月十六日(月)
「良寛の流行」で
「(前略)
我が園に咲きみだれたる萩のはな朝な夕なに散りそめにけり
良寛のこの歌は、単純であつて、そして充ちてゐる。(以下略)」と述べている。
茂吉がこういうのは、(中略)解良栄重の言葉によると、「師神気内に満ちて秀発す。其の形容神仙の如し」というから、その風丰からも察するに内部から神気が外に溢れていたものと思う。(中略)茂吉のいう「歌が充ちている」というのと一脈通ずるものがある。

良寛は、敗北者や落ちこぼれではなく、その逆だった。
茂吉は白秋や木下杢太郎、啄木、晶子からも影響をうけているとさえ、アララギ系の人々からも指摘され、又当時非難をうけている点もあるが、茂吉の作柄については、まだ漠然としていて、明瞭な跡をとどめるようなことはしていない程の用心深さであったが、良寛にいたっては、茂吉は平然とリズムも、語彙も言い廻しも、そっくりそのまま4をまねているのであるから不思議である。

次に
西行の影響は茂吉にはないものと思っていたが、何と、それも最晩年の茂吉にはちゃんとあらわれているのである。西行はアララギ派の歌人には、あまり歓迎されては来なかったが(以下略)

小生自身は、アララギ派とは異なると自称するが、西行と合はないことではアララギ派と一致した。
茂吉が残年になって、公職追放を危惧することがあったり、敗戦後の虚脱感、国家のゆくすえを心配することから(以下略)

その結果、西行に似たと云ふのだがまづ西行の
風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
ゆくへなく月に心をすみすみて果てはいかにならんとすらん
すずか山うき世をよそにふりすてていかになりゆくわが身なるらむ
以上三首は西行の歌である。これに通ずる茂吉の歌はかなりある。
笹の葉のさやぐ山べをたもとほり行方もしらぬ心のごとし
ふゆ寒く最上川べにわが住みて心かなしきをいかにかもせむ
鴉啼く強羅の山にわが居りていかになりゆく定命なるべき
あやしくも箱根の山にわれ目ざめ行方も知らぬおもひをぞする

共通点は、先行きが不明と云ふ事だけで、内容はまったく異なる。西行は、富士の煙、月、うき世と、言葉だけ壮大だ。茂吉は、笹の葉の山べ、最上川、強羅の山、箱根の山と、身近だ。
残年の茂吉の体力の衰えはまことにあわれである。すっかり歌にも脂身がぬけて、平淡な味わいになり、良寛の歌に親しんだ人には、この方が自然にさえ思われる。私はむしろ、これを茂吉の良寛調といいたい。

なるほど。これは一理ある。

十月十七日(火)
昭和五十八年に書かれた「あとがき」には
良寛に親しみ始めたのは、今から十二、三年前のことである。(中略)これに比べて、茂吉の方は、私の中学、高校時代にさかのぼるのであるから、今から三十年以上前に、私は『赤光』などを手にしていたのである。
良寛については、(中略)私は全国に先駆けて、横浜に「良寛会」を組織し(以下略)

伊藤さんは、良寛を敗残者と見る。伊藤さん自身は、私立大学教授なのでどちらかと云へば勝ち組である。それなのに敗残者と見る良寛に興味を持つのは、歌を介してかなと思った。
良寛に興味を持つは 仏道か漢詩か歌か書の道か または清貧敬ふか 敗残と見て希望持つそれならよいが 勝ち組が敗残と見るしてはいけない

反歌  良寛は天才敗残仏など見る人に合はせ七つに光る(終)

追記十月十八日(水)
伊藤さんは、歌が好きで、しかも茂吉より良寛の歌が優れると見た。これが良寛好きの理由ではないだらうか。それなら、伊藤さんの良寛の歌への批評は貴重だ。

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