二千百二十八(和語のうた)最新の歌論(その八)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十月十六日(月)
「斎藤茂吉と良寛」を読み始めて、思ったことがある。小生が良寛を調べ始めたのは、アララギ派の人たちが良寛に言及するからではないか。時系列を調べてみると、それは無かった。小生はまづ、近代の歌が嫌ひだった。だから万葉集、古今集を読んだ。江戸時代までの多くの人を扱った作品集も読んだ。そのときに良寛の歌もあった。それがきっかけだった。下の子の大学入学式のついでに、寺泊への往復で良寛の名を知った。これが事始めだが、本格的に調べ出したのは歌がきっかけだった。
明星の感情過多は合はないが、本日読み始めた空穂の歌にも感情の多さが気に掛かる。子規が写生を唱へたのは、それが理由かと気付いた。今まで子規の写生論には反対だった。本当に描くのは、写生の背後にある心の動きだ。しかし、明星は無視しても、空穂の感情を直接詠むことの欠点に気付いた。
なを人により傾向の相違がある。空穂のやうな歌を好む人は、それはそれで悪いことではない。

十月十八日(水)
空穂の歌を再度読んで思った。感情がない歌ても、感想または体験が入る。つまり空穂の歌は、自身が中心。アララギ派のやうに景色や事象が対象とは、正反対だ。とは云へ、これまでに何回も書いたが、景色や事象が対象でも、それを感じた自身がある。
小生が、理論の歌を排除しない理由はここにある。アララギ派は理屈と呼んで批判するが、理論に感動したから歌にしたはずだ。
理(ことわり)を歌にするのはその中に心動かす事あればこそ


十月十九日(木)
不定形文を定型にすれば、元の不定形文がどのやうな内容でも一段階美しくなる。とは云へ、美しい内容ならそれだけで一段階美しくなる。
前に、定型の美しさの他に、もう一つ美しいものが必要だと書いた。アララギ派の歌で、旅先のものが美しいのは、これが理由だった。一方、空穂は自身を中心にして美しさを出さうとした。アララギ派は、万葉集を模範とすることで美しさを出さうとした。
小生は、万葉集の中で定型の他に美しい歌は、それほど多くは無いと考へてきた。これは万葉集が美しくないのではなく、個々の歌の話だ。万葉集自体は、古い時代の記録、或いは言霊信仰としての美しさがある。歌を連作または散文の中に埋め込むことで、美しさを出せる。小生が物語性と呼ぶのは、この美しさだ。
よろづ葉は 旧い世または言霊を歌が持つ故美しい 今の世にては美しさ 何で出すのか物語または調べか枕詞か

反歌  ときどきは違ふ中身や詠み方とたまに使はう枕詞を

十月二十日(金)
日本の敗戦は、歌界に激震が起きた。これは明治維新に匹敵する。それなのに歌界は、そのことを認識しなかった。
戦ひに敗れた者の惨めさは歌さへ変はる そのことに気付かず相も変はらず生きる

反歌  よろづはが遠くなったか負け戦頭洗はれ中身は空に(終)

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