二千百十九(和語のうた)現代短歌全集第三卷
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十月七日(土)
第三巻も、夕暮と篤二郎を調べる為に借りた。まづ夕暮「生くる日に」の先頭
沈黙ぞわれをいたはりなぐさむる今日も草場に来て見入る空

に始まり六首目まで悪くない。ところが七首目から悪くなる。
篤二郎「明る妙」は、最初から
久方の空ゆこゞしく生ふる山玲瓏として風にふかるゝ
ひんがしの群(むら)山のうへ茜さしもろもろの声しばしこもらふ
うづまきてうなれる風のたむろとも山そびえたち朝明(あけ)するも

と調べが美しい。しかし読み進み飽きてくると、内容に乏しい。夕暮、篤二郎ともに、読み続けようと云ふ気にならなかった。
赤彦「切火」は、最初から
青海のもなかにゐつつ昼久し錦絵ならべ見居りけるかも
天の原はるばる来つつ現(うつつ)かも海のいろ深く黒き山二つ

調べ、内容(物語性)が佳い。破調が無いので、定型化の美しさを存分に味はへる。と書いた後で「黒き山二つ」が字余りに気付いた。その前の「海のいろ深く」は「い」があるから字余りでは無いとそちらに注意が行った為だが、目立たない字余りだったので美しさを損ねない。
文明が、左千夫は万葉に近く、赤彦は更に近い、と評したのは、これかと思った。左千夫、節、茂吉に挟まれて、赤彦を見逃してゐた。 ところが中盤に入り
バナナの茎やはらかければ音もなし鉈(なた)を打ちうち女なりけり

これは字余りが目立つ醜い破調だ。内容もつまらない。今回、赤彦は読まない予定だったが、たまたま読み始めて優れた歌に遭遇したと喜ぶのも束の間、このあと字余りが多くなり、終了とした。
空穂「濁れる川」は、どこが悪いと云ふのではないが、読み続けようと云ふ気にならない。歌感が違ふのだらう。とは云へ、空穂には長歌があるので、それを糸口に再度読んでみたい。
空穂とは歌の考へ異なるか だが長き歌糸口に短き歌に広げつつ どこが違ふか調べてみたい

反歌  松本に歌が関はるただ一つ示す所が空穂の館
(推敲日記)最初、「松本に歌が関はるただ一つ示す館が空穂の館」で、館の重複が難点だった。次に「松本に歌が関はるただ一つ示す館が空穂の栖(すみか)」にした。暫くして、窪田空穂記念館と道を挟んだ反対側に生家があり、二つなことに気付き、「ただ一つ示す所」にした。

空穂を検索したら、上位に文京区立図書館の「ぶらりマップ(作者一覧)」を見つけた。
歌人、窪田空穂は(中略)中学校を卒業した明治28年19歳で上京し伏竜館(本郷湯島天神下)に寄宿し、東京専門学校(現早稲田大学)で学びますが、1年で退学し(中略)その後一時帰郷しますが、(中略)再び上京し、明治38年第一詩歌集『まひる野』を刊行します。(中略)明治45年小石川竹早町(小石川5丁目)に、大正4年小石川久堅町(小石川4丁目)に転居しました。(中略)一時高田村雑司ケ谷(豊島区)に移りますが、大正10年小石川雑司ケ谷88番地(目白台2-4-16)に移り、昭和42年91歳で亡くなるまで暮らします。短歌、小説、随筆、歌論、評釈と多くの分野の著作を残し、後人を育てました。

東京では、一時豊島区を除き、ほとんど文京区だったことを初めて知った。空穂が小説や随筆も書いたことも初めて知った。
夕暮ら二人の歌を読むうちに たまたま出逢ふ赤彦と空穂を次に調べると思ひ勇むと 次にまた気付く二人は信濃の人に

反歌  筋書きと調べで作る美しさ何で補ふ枕詞か(終)

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