二千四十九(うた)1.左千夫の歌集から浅間と山辺の湯、2.二つの滝沢家問題解決
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
七月二十三日(日)
左千夫全集第一巻に出てくる浅間温泉と山辺温泉をまとめた。まづは明治三十九年の蓼科遊草だ。
丙午八月信濃甲斐の間に、汽車通ひ初め(中略)先ず松本なる浅間の湯に(中略)翌七日(中略)山辺の湯に誘ふ、山辺の湯は又湯の原の湯とも云ふ、此あたりの地名殊に優美にして趣き又それにかなふ

藤井、湯の原、御母家の三つをまとめて、山辺の湯と云ふのが普通だが、ここでは三つの中心で一番大きい湯の原を山辺の湯と呼んだ。或いは当時これが正しかったのだらうか。歌は
奈良井川さやに霧立ち遠山の乗鞍山は雲おへるかも
菅の根の長野に一夜湯のくしき浅間山辺に二夜寝にけり
殿山のたをりを過ぎて湯の原にわがゆくみちに花折る少女児
みすゞ刈る南信濃の湯の原は野辺の小路に韮の花さく
夕されば河鹿鳴くとふすゝぎ川旅のいそぎに昼見つるかも
   山辺の湯に近く苧桶の湯あり
湧くみゆのぬるくしあればさびしちふ苧桶はめぐし惜しき苧桶や

苧桶が御母家の事だとは気付かなかった。八月七日蕨真に宛てた絵葉書は
信州浅間の温泉光勘左

とあり、光は望月光、勘は胡桃沢勘内とある。左千夫の歌は
科野路の山しぬはくと山雲の常ゐる夏をよきて遊はな

十一月に
浅間温泉千代の湯上原良三郎に宛てた

絵葉書がある。
明治四十一年は「麻葉会」の小節で
志都児記「浅間温泉の歌会」に、「五月十日左千夫先生が越後旅行の途すがら諏訪を通られければ別れ惜しく共に松本浅間温泉に到り千代の湯にて麻葉会同人と昼夜作歌す」

千代の湯は廃業したが、場所は玉之湯の左隣にあった。明治四十二年は「信州数日」に
東都より馳せて松本に至る(中略)共に相擁して薄暮浅間に至る。(中略)家は小柳の湯といふ。楼上極めて遠望に富めり。

とある。小柳は廃業したが、今は松本十帖小柳として再生した。歌は
常世さぶ天の群山朝宵に見つゝ生ひ立つうまし信濃は
とりよろふ五百津群山見渡しの高み国原人もこもれり
秋風の浅間のやどり朝露に天の門ひらく乗鞍の山

三つ目は浅間温泉の歌碑で有名だ。
明治四十三年の
おく山に未だ残れる一むらの梓の紅葉雲に匂へり

について
浅間温泉玉の湯蔵扇面に(以下略)

とある。
今回の本には無かったが、前に滝沢本家で歌会を開いた書籍を読んだことがある。これについて調べると、日本法学第八十八巻第三号に清水恵介さんが
自然湧出泉時代の浅間温泉における湯口権の諸相

と題する論文を書いた。その中に明治初期の所有が、富喜の湯は滝沢友造、桑の湯は滝沢祐吉、玉の湯は滝沢瀬一郎とある。別の「鷹の湯源泉所在地の共有関係の変遷」図では、富喜の湯は持ち分が137/137で滝沢友造から、最終は7/137で滝沢知足、13/137で最終滝澤卓夫(富喜の湯)、20/137の三浦忠夫(小柳の湯)が最終は60/137三浦忠夫に、20/137滝沢勇吉(桑の湯)が最終は今井合名会社(芳の湯)。その他違ふ苗字は省いた。
滝沢本家は、民家かと思ったが、旅館だった。滝沢知足は、戦後に松本電鉄の株を買ひ占め経営権を奪ひ、しかし松電ストアなど経営者として一流だった。その息子も川中島自動車を再生しアルピコグループを形成し、一流だった。母が前に滝沢知足は、塩尻のタクシー会社社長ではないかと云ったが、浅間温泉の老舗旅館だった。
みすずかる浅間の湯にある滝沢の本家を調べ一年が 電鉄社長滝沢家調べ始めて約五年 左千夫を調べ偶然に同時解決湯の花と咲く

反歌  電鉄は私的整理で滝澤家退き時の流れやむなし
反歌  浅間の湯左千夫ゆかりの宿多しだが少しづつ時の流れに
因みに母の実家は、松本市内だった。その前に祖父(母の父)は上京して祖母と鶯谷の東に住んだ(今の台東区根岸だと思ふが下谷かも知れないので鶯谷の東とした)が、関東大震災で祖父母は松本へ引き上げた。その後、母が小さいときに浅間温泉へ引っ越した。祖父の先祖は造り酒屋だったと云ふ話を聞いたが、浅間温泉ではなく松本市内だ。今年五月に浅間温泉へ一泊したときに、浅間温泉に酒造所があったか前に聞かれて一ヶ所あったと云ふ話を仲居さんがしたので、追加した。
左千夫が通った子規宅の近くに、祖父母は住んだ。明治末と大正末の時間差はあるが。(終)

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追記七月二十四日(月)
経済産業省のホームページに、研究会の資料が載った。
アルピコグループの一体的再生
~ローカル経済圏における地域密着型再生スキーム~

で、八十二銀行の本店営業二部長佐藤耕志さんが九年前に発表したものだ。原因を抜粋すると
(1)乗合バス事業は補助金も少なく、過去20年間の累計で56億円の営業損失を計上。
(2)小売業のプロが不在で、漫然とした店舗オペレーションを継続。店舗改装等の必要な投資が行われず、競合他社との競争激化に 伴い、収益力低下が顕著となった。
(3)リゾート事業の買収と拡大、シティホテルの建設が過剰債務を招いた。特に総額170億円をかけたシティホテルは開業以来累計で28億円の営業損失を計上。グループ全体の収益圧迫要因となった。
(4)オーナー家によるグループ全体の経営戦略が不在で、グループ拡大の方途が不明確であった。(以下略)

このうち(3)は予想外で、これが私的整理の最大原因だった。また(2)(3)(4)に共通するのは、人材が居なかった。言葉を変へると、皆が社長の言ひなりだった。予想外と云へば、後方に書かれた
自動車学校事業については現時点では高収益だが、今後は少子化によるマーケット縮小が確実であり売却を進める。

も意外だった。

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