二千五十四(和語のうた)歌の本を何冊か読む(左千夫、子規、純、文明)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
七月二十七日(木)
筑摩書房の「現代日本文學大系10 正岡子規 伊藤左千夫 長塚節」で、まづ左千夫の解説(山本英吉)を読んだ。
左千夫は独立営業して基礎が固まる頃から、生理的に乳牛をしぼれなくなった理由もあって、家事には殆ど関係せず、所謂風雅の文学に携っていた(以下略)
ところが
四十三年の水難の前後を期として著しく深められ、単なる趣味至上的態度を脱却して、その作品は特に短歌に於て(中略)当時の所謂自然主義派歌人と比較して、却って現実感の充実している(以下略)
七月二十八日(金)
同じ書籍で、子規の歌を読み、感じたことは子規が主張する歌論とは異なる歌もあることだった。その一方で、写生に優れ歌論どほりの歌だ、と云ふものもある。
総じて子規は、定型化の美しさだ。これは誉め言葉であるとともに批判にもなる。今回は中立で用ゐた。定型化だけが特長なら、もう一つ特長が必要だ。
七月二十九日(土)
この本の次に借りたのが筑摩書房の「現代短歌全集 第五巻」で、石原純を検索して見つけた。純の歌は冒頭が
自(し)が生きの忙(せわ)しさ措きて、
はろけくも山ぐにの町に
我れは来つるかも。
最初読んだときは、調べの勝れた歌だと感心した。よく読むと、五句目が字余りだ。三首目の
倦みごころしましく湧きて、
山ぬちの町に我が来ぬ。
ゆふ昏(ぐ)るゝころ。
これも美しい。ところがこのあとは、調べの佳い歌がほとんど無くなる。中間の章の詞書に
赤彦兄の北海道旅行の途次、立ち寄られたのを迎へて(以下略)
とあり、後に赤彦や茂吉と不仲になることが、ここでは予想もできない。ずっと後ろにドイツ留学の歌が続き、茂吉みたいに日記風にすればよかった。行分けと句読点は気に掛かる。後の新体詩へ行く萌芽か。
七月三十一日(月)
次はこの本で土屋文明「ふゆくさ」を読んだ。今まで一度も文明を読まなかったのは不思議だが、左千夫の歌集を編集した文明が、長歌を除いたことについて「他意は無い」と書いた。それを読んで、文明について誤解したことが原因だった。長歌を除いたには、理由があるはずだ。何も云はないなら、許容範囲だ。しかし他意は無いは不誠実だと、そのときは感じた。
長き歌外した訳を云はざるに疑ひを持ち これまではその人の歌読まざるに 読みて調べに美しさあるが分かりて一つ先へと
反歌
一つ目は美しまたは醜しと思ふ歌でも変はることあり
小生の長歌への感情も、文明と同じで複雑である。まづ空穂と云ひ左千夫と云ひ、長歌はあまり読むところが無いと思ふ。しかし空穂や左千夫、更には子規が長歌を作ったには、理由がある筈だ。万葉集にもあると云ふのは一つの理由だが、自身も作ったからには自作に文芸価値があるからだ。
小生は今まで三人の長歌の文芸価値が分からなかった。しかし今回左千夫の歌集を読んで、歌の連続性に気付き、長歌は連続性のためにあると判った。
そんな事情で文明の歌集は読むのが遅れたが、今回読んでみて、調べの美しいことに感心した。そして六章目(小生が歌集で章と呼ぶものは、世間で云ふ節かも知れない)に「左千夫先生逝去」があり、師への敬意もある。(これは、茂吉も同じ程度にあるが、特に戦後有名になるにつれてそれが無くなったかも知れないし、茂吉の後継者たちが意図的にさうしたのかも知れない。それは、いづれ調べたいものだ)
文明の歌について、八一の歌と同じで美しいのだが、清き水に魚棲まずで頭を素通りしてしまふ。ところが途中から、不用意な字余りや漢語が多くなった。それ自体は左千夫もさうだし、それは子規の死後に子規の言論に従ったためだ。文明も、左千夫の死後に左千夫の悪いところを見倣ったのかなと思った。
一方で、左千夫みたいに題材に偏りがあることは見られず、左千夫の欠点を薄めたのが文明だ。一回目はさう感じた。
新しき歌詠み人の歌を読む 見つかることは少なきも 幅広げれば役立つ事も
反歌
同じ人二つ目に読み一つ目と異なる佳さと悪さ見つける(終)
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