二千六(和語のうた)信濃の旅(諏訪湖SA、浅間温泉一泊、松本城、高ボッチ)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
五月六日(土)
明日から、下の子と一泊旅行をする。まづ四月十一日に、どこがよいか訊かれたので
(1)松本に泊まったあと、車がなくては行きにくい寺泊、与板
を挙げた。しかし全部は多いかな、と考へ直し
(2)松本のみ
(3)近場で千葉県のドイツ村
を挙げた。(3)は近いが、車が無いと不便だ。下の子から(2)の回答があり、宿の手配と、行き先案を出すといふ。そして、宿は浅間温泉と連絡があった。寄る場所に希望があるかと云ふ。
そこで母の実家跡、良寛の師国仙に菅江真澄が偶々出会った湯ノ原温泉、松本空港を挙げた。子から、そのほか諏訪湖SA、 高ボッチの提案があった。
高ボッチは、小生が小学生の時に、松本在住の伯母が、高ボッチは何も無いといったことが今でも記憶にある。インターネットで調べると、景色がよく四方を見渡せる。しかし明日と明後日は雨だ。
天気が悪いときの代替案として、諏訪湖、諏訪大社の四宮、松本城を出した。以上、この旅行の発案者は妻、希望提出と微調整提案者は小生、計画作成者は下の子となった。

五月七日(日)
朝八時半に家を出発するとき、突然雨が降り出し、しかも大粒だ。大雨の中を、首都高の戸田から高井戸へ、そのまま中央道へ入った。中央環状線は、小生にとり初めてだ。中央道も、大月ジャンクションから先は初めてだ。西新宿から甲府辺りまでは、小雨が降るだけだった。
諏訪SAで昼食を食べた時も小雨だった。諏訪湖は、水面近くでみるのが普通だ。ここは高い位置から眺め降ろす。壮大な景色だ。馬肉とともに、人気が高いのも肯ける。
諏訪の湖(うみ)高き場で観る景色には 岸辺高さの景色とは また異なりて美しさあり

反歌  小雨空時に大雨繰り返す部屋の中から真下に湖(うみ)を
昼食後に一般道へ降りた。下社の一つの門前を走り民家となって先の小道の坂上で森を左に見た。ストリートビューで見ると春宮で、この道は旧中山道だった。
昼食べて下の道降り 四つある諏訪大き宮下社(やしろ)  雨が強くて前抜けて横の坂道登り切り 社の森を見て塩尻へ

反歌  下の道塩尻峠昔聞き始めて超える松本平
雨が強いので、このまま松本空港へ行った。空港なら、強雨でも影響が無い。子の発案で下の道を走った。小学生のころ母から、松本から諏訪へ行く路線バスが塩尻峠を経由する話を聞いた(今は廃止)ので、その経路だ。一度は通りたいと思ってきたので、期せずして念願が叶った。
塩尻を過ぎて左へ港有り 空を航(わた)れる機(からくり)が 着きて人降り人乗りて再び発つの 空の港が

反歌  待合と店に多くの人を見る背に負ふ望み土産思ひ出
松本空港は三便だと思ったら、六便ある。空港内の店と食堂は、それなりの入りだ。見終って、湯ノ原温泉に向かった。近くの御母家、藤井とともに、山辺温泉とも呼ばれた。左千夫が山辺で歌会を開いた記録がある。湯ノ原に国仙の足跡がある訳ではない。この辺りを車で見て、浅間温泉に向かった。
湯ノ原の宿で江戸の世名の知れた 仏の教へ為す人を育てた人の云ひ伝へ 忍び車の中より探す

反歌  山辺では湯ノ原にては並ぶとも御母家は一つ藤井も一つか
反歌  山辺の湯見終へ小走り浅間の湯旅の疲れをお湯にて癒す
運動場の裏を抜けて、浅間温泉の中ほどに出た。左折し宿に着いた。
下浅間宿は薬師のすぐ近く 宿はすべてが畳敷き 昔の名残り新しさ美しくあり三つ揃ひ 心休まり湯は暖かに

反歌  外は雨かなりの強さだが明日は上がると聞いてやや落ち着きが
反歌  夜中にも湯に入り眠り起き中の廊(わたどの)に置く机で過ごす
反歌  早い朝まだ雨の中西石川そして芳子と二(ふた)跡偲ぶ
反歌  食べる前子連れ再び二跡へ説きて明かして二人で偲ぶ
解説板に、川島芳子は松本高女に馬で通学したとある。母の一番上の姉も松本高女で川島芳子と同学年か一つ違ひで、母によく川島芳子のことを話したさうだ。馬の話は、小生も小学生のころ母から聞いた。
西石川 二つ前の世いくさのち帝泊まりた宿にして 五(い)つ年あたり過ぎたあと寂れ始めて五十(いそ)年を経たのち閉じて 老ひ人の里

反歌  西石川すぐ近くなる道端に川島芳子説き明かす板
小生が小学生のころ、母が「天皇陛下が泊まると高いのではないかと皆が避けるのではないか」と話したのを覚えてゐる。それから四十年を過ぎて、西石川は廃業し、老人ホームになった。


川島芳子宅跡(写真をクリックすると大きな写真。表示された写真でクリックすると、鮮明になります)


五月八日(月)
朝食前は前日、その後を本日にした。
朝を食べ暫く休み 仙気の湯開きて居ればお話を聞かうと子連れ入るとも 誰もゐないで外に出て 真砂の湯にて立ち止まり扉の鍵を説き明かし 母の家跡見たあとに 滝は初めて水が無く 桜ヶ丘に山登る だが見晴らし場無くなりて 更に登るもまだ着かず 左千夫の歌も見つからず 山降りるとき歌はあり 宿に戻りて手続きをした

反歌  浅間の湯桜ヶ丘は変はり果て農(たがや)す護る柵獣から
反歌  木が倒れ上を超えるを五つほど桜ヶ丘は大きく荒れる
反歌  山下り右に左千夫の歌ありて西石川の物を大きく
反歌  浅間では曇りて見えず乗鞍はだがあめの戸を左千夫が開く


滝(水が無いのは初めて)、かつて川に角木を二本結んだ橋があり、右岸からも行けた。

  
左千夫歌碑の説明板                   左千夫歌碑(西石川所蔵の書を拡大し制作した)
   (写真をクリックすると大きな写真。表示された写真でクリックすると、鮮明になります)

仙気の湯は、かつて区有と書いてあった。祖母が、区費を払ふ人は無料だったか割引きだと云ったことがある。しかし真砂の湯は、小生が小学校低学年のときまでは会費(今は月二千五百円)を払ふと木製の大きな鍵を貸与され、入湯できた。その後、番台ができて銭湯になった。そして再び大きな鍵式に戻った。区費は皆が払ふだらうから、真砂の湯などとの兼ね合ひがどうなのかを訊かうと思ったが、番台に人がゐなかった。母にその話をすると、祖父(母の父)は朝早く仙気の湯へ行くのが好きだった。顔見知りと情報交換が楽しみだったのではないかと云ふ。
縄手通り、中町通りを歩いたあと、松本城へ入った。下の子は初めて、小生は何十年ぶりだらうか。城の外までは行くが、中へは時間の都合で入る機会がなかった。
松本の城は日ノ本五つある国の宝の一つにて 石垣の上厚い壁石落としたり矢を放つ下向きの溝 その上は矢と銃(つつ)を撃つ穴を備へる

反歌  外からは木で燃へやすく見えるとも厚き壁にて銃(つつ)をも防ぐ
関が原その前辺り世の中が戦に向かふその時に 作られた城松本の平を護る 平城にありてよそより見れば山城

反歌  城の中外の国より訪れた人が多いは山の州(くに)かな
反歌  城の外縄手通りと中町も観るに値が旅の思ひ出
帰りも縄手通りと中町通りを歩いて、車へ向かった。


松本城


母の出た家のお墓にお参りし お土産を買ひ 美味しいとうわさのそば屋寄ったあと向かふ塩尻高ボッチ原

反歌  狭き道車が二つすれ違ふ五つほど経て頂きへ着く
反歌  下観ると諏訪の湖水暗く周り緑で黒に導く


高ボッチから観る諏訪湖


塩尻で車の為の道入る 速く走りて諏訪を過ぎ往きにお昼を食べたのがつひ先ほどと思ふほど 思ひ出深く水深く魚の多い湖を越す

反歌  諏訪を過ぎ甲府を過ぎて八王子左に別の速き道行く
反歌  別の道車が多く思ふほど速くは無くも高き速さで(終)

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