二千四十六(和語のうた)左千夫の歌集(続編)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
七月十五日(土)
明治二十九年から三十一年に古今風(雅の心)。長歌もあり。従って長歌は、子規の影響ではない。明治三十二年から左千夫風に。「滊車」の漢語があり、言ひ換へ語が無いので問題ない。左千夫は、子規に出会って歌風が変化したのではなく、変化したあと式に出会ったことが分かった。
明治三十六年、短歌会で長歌。この頃から物語性が無くなる。一つの題材について続けて詠んだものもあるが、物語性無し。古さが無い歌が混じり、これらは調べが悪くなった。
七月十七日(月)
明治三十八年も物語性が無くなり、関連する題の歌が並ぶのみ。しかし調べの美しいものもある。明治三十九年の中頃に、字余りが多くなる。その後
菜の春を雨一夜降り朝ぬるみ蟹網張るも前の小川に
を巡って
六月十日開催の俳書堂歌会で激論が戦わされ、石原純を除く出席者(長塚節・香取秀真・三井甲之・蕨真・蕨桐軒)が総反対したことにつき、「余は全体これ許りの事に熱論の湧いた主因を疑ふのである。馬酔木近来の傾向なとゝ大業に云ふのが解らない、・・・菜の春と感したから直に菜の春と云ふたまでゞある、(中略)根岸短歌会における左千夫とのさまざまな対立が底流しつつあったと見られる。
悪意を持つ間違ひを赤色にした。事態は複雑である。まづこの歌は密度が濃い。それは「菜の春」「雨一夜」「朝ぬるみ」「蟹網張る」に現れる。その流れで読めば「菜の春」は問題ないが、密度が濃い事に気付かないと「菜の春」は辺だ。
それより第四句まで高密度で来たのに、「前の小川に」で拍子抜けする。「前の小川に」を「蟹網張るも」の前に移せばよいのでは。そもそも歌は、作った本人が佳いと思へば佳いし、読んだ人が佳いと思へばこれも佳い。それを子規一門は、歌論で攻撃するから変になる。
それより重大なのは、石原純を除く出席者が反対したものの、後に左千夫は雑誌の編集を甲之に任せ、しかし後に左千夫などほぼ全員が甲之と対立してアララギを新規に発行することになる。この流れがあるから、この時点で「左千夫とのさまざまな対立が底流しつつあったと見られる」とするのは、悪意ある間違ひである。土屋文明と山本英吉のどちらが悪いのか。
七月十八日(火)、二十一日(金)
明治四十一年は、途中から字余りが目立つやうになり、その後は内容も悪くなる。更にその後は調べも悪くなる。長歌が無くなったのが原因か。或いは観潮楼に出席が原因か。
明治四十二年。旅の歌は、物語性がある。それ以外の歌は物語性が無い。明治四十三年に、久しぶりの長歌。明治四十五年も久しぶりの長歌。その前まで題材が悪い。このあと字余りがひどくなり、特に大正二年の
こと国をいやしとはいへ日本は臣(たみ)の命の塩に税とるところ
は最悪の出来だ。
厠に来て静なる日と思ふとき蚊の一つ飛ぶに心とまりぬ
これも「厠に来て」を「厠にて」、「蚊の一つ飛ぶに」を「蚊一つ飛ぶに」で済む話ではないか。字数合はせの美しさが無くなる。
七月二十三日(日)
左千夫の歌風は、子規と出会った後もそれほど変化しなかった。子規の死後も暫くそれが続いたが、物語性、題材、調べ(特に字余り)が悪くなった。八一が、左千夫の歌風が変はったと云ふのは、このことではないだらうか。
その理由として、子規の生前の主張を守らうとし過ぎたことではないか。子規は字余りをしたほうがよい場合もあるとした。歌によっては稀にそんなことがあるかも知れない。死後に子規は何も云はないから、状況の変化に対応できない。
それより重大なのは、歌風が変はった左千夫とともに、赤彦、茂吉らは歌を作り、歌論を展開したことだ。
物語 調べが佳いと気が付くも 調べ悪いと読みにくく気付かぬこともしばしば起こる
反歌
死ぬ前の言葉に後も従ふとその行き過ぎに気付かぬことも(終)
追記七月二十五日(火)
明治三十三年に、歌が急に佳くなったとも感じた。子規門下となり、その影響か。
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