千九百七十九(うた) 雨と図書館休館日で、三度目の飯田利行「良寛詩集譯」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
三月二十八日(火)
日曜は雨、月曜は図書館休館日なので、三回目の飯田利行「良寛詩集譯」特集を組んだ。一回の貸し出しで、三回特集を組むのは、今までで初めてであらう。
本日は三の二章までで、文章を引用はせず、感想だけになった。
1.坐禅は、念仏と同じやうに、行ふことに意義があるとするか、それとも手段とするか。良寛は前者。
2.良寛は、晩年まで坐禅一筋に過ごした。
3.堕落僧を超えた存在だから、詩は文学作品または書道作品。詩を作ったからと言って僧と俗の中間ではない。
4.飯田さんの文体に慣れたためか、気にならなくなった。
5.心の中を文章にした。そこが職業詩人歌人との違ひ。
6.晩年と思はれる作品は、文学作品であって自嘲ではない。
良寛の漢詩について 今回は引用せずに紹介を 三回目にはやり方を変へてはみたが目指すは同じ
(反歌)
良寛の漢詩について前半で感じたことを六つまとめた
三月二十九日(水)
本日は、文章を引用した。五の一章の
そこで仮相たる影への執着の迷いを捨て
別所に真なるものが存するかと求めても
その真は何処にという固定感に捉われて
そこで把んだ「真」なるものも
むしろ君らの心を傷跡させることになる。
この理の微妙なる消息は
直々に坐禅に参じて 会得するの外はない
君ら自らの私見 君らの思慮に 随がうと
永劫に大千世界(さとり)から隔てられるという事だ。
最終行で、大千世界をさとりとすることを紹介したかったのだが、その前も貴重なので紹介した。
良寛の思想を示す貴重な詩飯田訳注貴重を今に
七の二章の
少年 禅に参じて 燈を伝へず
今 草庵を結んで 宮守となる
半ば社人に似 半ば僧に似たり。
今回書き下し文を紹介したのは、飯田さんは禅に関する訳はすごいが、かういふ心の中を表現した美しさは専門外だ。このまま固い文章に美しさが出る。
幾つか先の詩では
句を拾へば おのづから詩を成す
漢詩または和歌にすれば、それだけで不定型が定型となり美しい。良寛と小生は同じ発想だと思ふが、自然と漢詩または和歌になる。職業詩人、職業歌人みたいに、良い評価を得ようと思はないことが重要だ。飯田さんの訳注も
言葉を拾うてゆくうちに 自然と詩になる。
とある。(終)
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