千六百ニ十二(歌) 童話「寒山さん拾得さん」を読む
辛丑(2021)
十月一日(金)
「寒山さん拾得さん」と云ふ本を借りたところ、小学生向けの童話だった。舞台は今の日本で、小学生が顔なじみの近所のお寺に遊びに行くと、掛け軸から寒山さんと拾得さんが抜け出て、目の前にゐる。拾得さんが、寒山寺に連れて行ってくれた。縁日だった。偉い役人がゐて、寒山寺のお坊さんが拾得を普賢菩薩と紹介すると役人は怒りだした。すると拾得が大きくなって普賢菩薩像になった。拾得は元に戻り、小学生といっしょに日本の寺に戻った。
そんな内容だった。第二回「ミセス」童話大賞優秀賞受賞作品である。拾得と小学生が寒山寺に行った間、寒山と和尚は碁を打った。寒山寺に着いて掛け軸を見ると、寒山と和尚が描いてある。役人に拾得を普賢と紹介した。役人は、それなら文殊はどこにゐると問ひ、友だちのところで碁を打ってゐると答へると、怒り出す。読みどころもある。

十月一日(金)その二
最後に「はしがき」があり、そこに当時、臨済宗妙心寺派僧堂師家、花園大学学長の人が次のことを書いた。
ある日、閭丘胤というお殿さまが国清寺にやって来て、豊干和尚さんに、仏さまの教えについて尋ねました。すると和尚さんは、
「そういうことは文殊ボサツと普賢ボサツという仏さんに聞きなさい」
といいました。お殿さまは、
「その文殊ボサツ、普賢ボサツは、どこにおられるのですか」
と問いますと、和尚さんは、
「ここの台所で飯炊きしたり、食器を洗ったりしている」
といいました。寒山さん拾得さんは、文殊さん、普賢さんという仏さまがヘンシンしていたのです。
日をあらためてお殿さまが、寒山さん拾得さんに会いに来ますと、二人は手に手をとって、裏山の天台山に逃げて行ってしまいました。それから千二百年ほどになりますが、二人はいまもって帰って来ないのです。

森鴎外の小説より話が大きくなった。何しろ千二百年である。

十月二日(土)
「はしがき」は続いて
以前、私は中国の寒山寺へ行きました。寒山さん拾得さんが、住んでいたところに建てられたお寺です。そこの性空和尚さんに、
「寒山さん拾得さんは、日本へ行ってしまったのだ、といううわさが中国にはあるのだが、日本では知らんかね」
と尋ねられました。

聞いたことがない、と答へたさうだ。そんな噂があるなら、日本は寒山、拾得に興味を持つほうがいい。あるいは良寛が生まれ変はりか。寒山と拾得の、どちらか。
Wikipediaによると
寒山寺には、拾得がその後日本に渡って経を説いたという伝承が残っている。『人民中国』日本語版ウェブページには、日本には「拾得寺」という寺があるとも記されている。

と、ここでは拾得だけだ。
寒山寺 西條八十の 作詞した 蘇州夜曲に 描かれる 昭和の御代の 十五年 三年前に 日華では 戦火始まる 不幸の時代

(反歌) 寒山寺 鐘の一つは 日本製 伊藤博文 銘文を書く(終)

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