千九百四十九(うた) 1.不二家本社前でペコちゃんの頭をなぜよう、2.元勤務の会社感動無し
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
二月二十日(月)
本日は、昼休みに大塚仲町(今の大塚三丁目)交差点少し先の不二家本社前まで往復した。小生は、一昨年まで勤務した会社の前に、
1.大塚仲町の角にあるハードウェア輸入会社に一年間勤務した。
それ以外に、
2.一昨年まで勤務した会社の元会長の家が近くだった
3.一昨年までの会社で急逝した安田さんが眠る安田一族の墓は近くの護国寺にある
4.爬虫類展示施設の本社が近くにある(今は展示施設内に移転)
と四つが集中するパワースポットである。昭和の表現だと、霊域である。そこへ新たに、
5.不二家本社前のペコちゃん人形
と云ふ強力なパワースポットが加はった。不二家が移転した理由は、平成十九(2007)年に、期限切れ原料使用で生産、販売が停止した。二ヶ月後に山崎製パンと資本提携し、生産と販売を再開した。そして翌年に、本社が銀座から大塚に移転し、四ヶ月後に山崎製パンの子会社になった。
大塚仲町の交差点を護国寺へ向かふ坂を少し降りると、左側に不二家のビルがある。一階は店舗とエレベータ、上の階は不二家の各部門が入る。一階の店舗はランチもあるので食べようと中を覗くとほぼ満席なので、ペコちゃん人形の頭をなぜただけで帰路についた。と云ふのは冗談で、なぜないで帰路についた。(なぜるは、なでるの方言とあるが、東京でもなぜるは使ふ)
前日ストリートビューで調べて交差点右側に牛丼屋があるはずなのに、無かった。やむを得ずそのまま帰る途中で、(下の行へ続く)
-----------------------ここから「良寛の出家、漢詩、その他の人たちを含む和歌論」(百四十)--------------------
白鷺坂と云ふ文京区教育委員会の立てた案内板を見つけた。江戸時代は宇和島伊達藩の下屋敷で、明治時代に荒廃し白鷺の集巣地になった。古泉千樫が毎日通ひ歌を作ったさうだ。案内板は次を載せる。
鷺の群 かずかぎりなき鷺の群 そうぜんとして寂しきものを

茂吉は「そうぜんとして」を批判したが、小生は「鷺の群」を繰り返したことを批判したい。しかしよく考へると、それくらい鷺が多かった。「そうぜんとして」と「鷺の群」は、実景を見ればどちらも適切なのだらう。
浦和には野田の鷺山 展望の塔まで作り観光地 多くの人が見に来たが 昭和四十五年頃まで

(反歌) 引っ越しは昭和四十七年に鷺山行くも一羽も見えず

二月二十一日(火)
大塚仲町から護国寺へ下る坂には、都電が一台通過すると赤色の×印が点灯し、下へ降りると黄色のに戻る信号機が、都電廃止まであった。しかしこの信号機に従ふ運転士はゐなかった。当時はその理由が分らなかったが、これは落葉で車輪が空転し、前の車両に追突することを防ぐものだ。
落葉の季節だけ、従ふやう指示が出たのだらう。昭和三十年代の終はりくらいから、都電の軌道敷地内は自動車が走行できることになった。もし自動車が多ければ、この信号機は役に立たない。しかし昭和四十六年辺りまでの廃止日まで使用されたことを考へると、護国寺への坂は自動車の走行が少なかった。
都電廃止ののち、護国寺の電車停留所は、護国寺正門のバス停に変はった。同じ東京都交通局でも、電車部と自動車部は独立性が強かった。
似た例に、根津二丁目(現、根津神社入口)がある。都バス(国際興業と共通路線)は最初、根津一丁目(現、根津駅)の次が千駄木二丁目で、根津二丁目は止まらなかった。あと二つある。トロリーバスが廃止になり都バスになったとたん、根津一丁目のバス停が根津一丁目(逢初橋)になった。千駄木町のバス停は千駄木二丁目に変はってゐたが、都バスに駒込千駄木町のバス停があったので降りたら、団子坂の西側、白山上の東側だった。
停留所電車とバスに違ひあり位置と名前は組織が理由

(反歌) 東京都交通局は 電車部と自動車部あり 双方は別会社ほど違ひあり 東電街鉄外堀と 青バス黄バス二つの流れ
本邦初の試みで、短歌の反歌を長歌にした。短歌を詞書と考へればよいかな。

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二月二十二日(水)
二年前の再雇用終了のときは、ハードウェア輸入会社を見て、感慨深いものがあった。しかし今回は、あの会社に行かうとは思はなかった。
思へばあの会社の営業部長が、二年前まで勤務した会社の大阪事業所長とトラブルになり、あの会社は社長と営業部長も仲が悪かった。営業部長は従業員のほとんどを味方にしたが(正しくは、あの営業部長に付いて行く人はゐないから、社長の甥の営業部副部長を仲間にした)、小生は中立だったので営業部長が社長に小生を追ひ出せと圧力を掛け、小生はトラブルの相手先に放り込まれた。これではトラブルにならないほうがおかしい。
二年前当時の会社を辞めるとき 前職の会社来てみれば懐かしさあり だが今は近くに来ても感慨は無し

(反歌) 二年経ち二つの会社愛憎と愛憎記憶もともとに無し(終)

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