千九百二十五(和語のうた) 1.最新の歌論(その五)、2.歌会始
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
西暦元日後一月十五日(日)(2023.1.15)
他人(有名人、過去の人など)の作った歌の中から一首を「好きな歌」として紹介するものを読むと、なぜこんな歌を、と思ふことがよくある。「好きな歌」の九割以上はこれだと思ふ。
その理由は「私の好きな歌」だから「第三者に云はれる筋合ひはない」とする選歌なのだらう。「私はかう云ふ歌が好きだ、お前らとは違ふ」と云ふつもりなのかも知れない。
小生は、この歌は佳作だ、とすることはあるが、好きだと云ふことはない。好みを押し付けてはいけない。理由を云って好きだとするのなら、まだ許容範囲だが。

最近、良寛について一つ発見をした。良寛を訪ねて来たり、良寛を家に招く人たちは、良寛に漢詩や歌の解説をしてほしいのではないだらうか。漢詩は解説なしには意味が分からない場合があるし、歌は漢字で書けば読み方を習ふ必要がある。

一月十九日(木)
枕詞や序詞と、それらではないものとの間に、中間がある。枕詞だと、枕詞として修飾するのだが意味も通じる場合が一つある。枕詞だけ使って修飾するはずの語を省く場合もある。序詞も同じで、中間がある。序詞と修飾する語の関係が、完全に独立してゐない場合か。これらは枕詞風、序詞風と呼べばよいか。
歌を詠むときは、枕詞になるか序詞になるかと気にするのではなく、要は現代の感覚で歌を美しくすることに役立つかどうかだ。
歌会始で召人の
旧友のごとくなつかしあかねさす夕陽の丘に犬とゐる人

は佳い歌だ。それは「あかねさす」と枕詞を使ったことに因る。だからと云って、枕詞を使ふ人が増えたら、今度は逆に使はない流儀が美しいかも知れない。要は平衡だ。

---------------------ここから(歴史の流れの復活を、その四百四十四)------------------------------
敬宮愛子さまの
もみぢ葉の散り敷く道を歩みきて浮かぶ横顔友との家路

も佳い歌だ。「もみぢ葉の散り敷く」が美しく、「浮かぶ横顔」が「友との家路」で横に並ばれたことが分かる。秋篠宮さまの次は、愛子さまが天皇になられ、その次に悠仁さまがよいのではないか。

(歴史の流れの復活を、その四百四十三)へ (歴史の流れの復活を、その四百四十五)へ
---------------------ここまで(歴史の流れの復活を、その四百四十四)------------------------------
信子さまの
老犬を悼(いた)む思ひが友からの賜(た)びし子犬の声(こゑ)に救はる

は「老犬」を「老い犬」と読む前提で佳い歌だ。彬子さまの
器からこぼれてしまつた言の葉を静かにつむぐ友の横顔

は字余りだが内容で勝負の歌だ。久子さまの
紅葉(もみぢ)する木より聞こゆる鳥のこゑ黒姫の森を友と歩めば

に限らずすべての歌について、和語のみで詠めば十点加点、母音以外の字余りは五点減点。「を」は「お」と発音するから現代は字余りではないとする方法もある。秋篠宮さまの
彼方此方(をちこち)を友らと共に行巡(ゆきめぐ)り聞き初(そ)めしことに喜びありぬ

は「聞き」が同じ音の繰り返しだから母音と同じ一音半で字余りではないとする方法もある。紀子さまの
春楡(はるにれ)の卓の木目を囲みつつ友らと語る旅の思ひ出

は「卓」をどう読むか。「たく」だと和語に準じる語感、「つくえ」だと字余りだが万葉の時代と異なり現代は「え」を字余りとしない方法もある。
選者では三枝昂之さんがからうじて合格(一月二十三日追記、序詞として鑑賞した感想をその六に)、入選作は小生と選者で歌感がまったく異なる。
陸(おか)の虫獣(けもの)も鳥もいさなとり海の魚もみな友として

「鯨取り」と書かなかったには理由がある。鯨も友だ。だから枕詞で意味を持たない語として「いさなとり」を用ゐた。鳥ととりの対応もある。(終)

「良寛の出家、漢詩、その他の人たちを含む和歌論」(百三十)へ 「良寛の出家、漢詩、その他の人たちを含む和歌論」(百三十二)へ

メニューへ戻る うた(四百六十四)へ うた(四百六十六)へ