千七百九十(うた) 山本英吉「伊藤左千夫」
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
七月二十七日(水)
牧水の云ふ新派に、子規と左千夫は入るだらうか。国会図書館オンラインで調べると、昭和十六年に出版された山本英吉「伊藤左千夫」が検索できた。「序」を窪田空穂、斎藤茂吉ほか一名が寄せる。斎藤茂吉は
(前略)伊藤左千夫の明治歌壇に於ける存在とその全業績は、和歌史家の特に留目すべきものであるにも拘はらず、左千夫在世中の歌壇の主潮は別なところに流れてゐたために、左千夫の歌は新派の仲間入をさへ拒まれて分類せられ、『一首の歌が分かれば天下国家も何ほどの事でない』といふ左千夫の豪語も、ただ一話柄として極めて狭き範囲に伝へられたに過ぎぬほどであつた。
これで左千夫が新派に入らなかった理由が分かる。茂吉は「序」の最後で
自分は恩師伊藤左千夫先生に関する如是好著の発行を目前にして、一言を乞はるゝまゝに、少しく蕪詞をつらねて以て序とする。
これなら、私が斎藤茂吉を批判する理由はない。後世になって茂吉の弟子孫弟子などから、茂吉を持ち上げるため左千夫との関係を破壊する連中が現れ、これは史実の改変なので平衡を取るため、私が茂吉を批判せざるを得なくなってゐた。
戦前に執筆された書籍より天井覗く左千夫について
七月二十八日(木)
九十一頁に
「悟りが悪く」、学問がないため、常に子規周囲の怜悧な青年より冷笑せられつゝあつた左千夫が(以下略)
の表現がある。左千夫の外観からさう云ふ印象が昭和五十年辺りから出てきたのだらうと想像したが、昭和十年代既にあった。
左千夫へは外観により悪口を云はれることが戦前既に
百十四頁に
左千夫の万葉観が如何に子規の影響の下にあるかを主として見たのであつたが、次に左千夫の特色として注目すべき点は、歌の内容より調子を重視する態度である。
子規の影響下の万葉観とは、(1)万葉は主観の歌が多く、根岸派は客観(写生)の歌が多いこと、(2)歌調と造句の工夫、である。
私が、子規や左千夫の歌で佳いと思ふのは5%で少ない。左千夫を応援するのは茂吉の流れの人たちの偏った態度が原因だが、その一方で左千夫が調子重視となると、私と共通点ができる。
まづ子規について
子規は内容調子不偏両立とも言ふべき態度にあつたのである。
これに対し左千夫は
理より情を尊重する立場から、意義より調子を重視するものであつて、子規とは著しい相違が認められる。
ただし以上は、それぞれの歌論からの結論であり、歌そのものからの結論ではない。具体的には
序歌・枕詞・造語等
である。山本英吉さん自身は
それは矢張り技巧過重の度を過した批評と言はねばならない。
とする。私は、左千夫の歌論に賛成。
次いで同年五、六月の「新歌論三、四」に於ては(以下略)
所謂二十世紀とやらの今日、知識的進歩、理窟的進歩は有之、而かも文学の神髄たる美的感情なるものの上に於て(中略)今を推すべきか古を推すべきか。
これはこのあとの世代(に始まり今に至るまで)では間違ひだが、左千夫の生きた時代を考慮すべきだ。間違ひとは、古を推すのは調子であって内容ではない。
それは左千夫も分かってゐて
同年十一月(中略)「続新歌論」に、左千夫は
(前略)復古と云ふと雖も、調子の上に於てのみ、句法の上に於てのみ、詞の上に於てのみ、(中略)洋語漢語新事物、打ちこなして万葉調たらしめんと欲するなり。
前半まで賛成だ。洋語は入ったばかりで適切な日本語がない事情はあるだらう。しかし私は洋語なしで作る。漢語もときどき無しで作るのは、作れる見本を示すためだし、調べがよいためだ。
その外、「新歌論」「続新歌論」には、歌の本領は美的感情即ち趣味を顕はすにあり(中略)の所謂唯美的な考へが見られるが、これも亦子規説を継承したものに外ならない。
三十三年の左千夫の作歌は所謂客観歌が多く、歌論にもその意図が見出され(中略)翌三十四年の歌論は少しもそれには触れて居ず、却つて万葉の技巧を説き、調子尊重の態度に変つたのであつた。さうして三十四年の作歌は、出来のいゝ少数の歌を除いた大半のものは、著しく技巧的で内容空疎な形式的万葉調が多い。
として内容空疎な歌を八首挙げる。これだけ見ると山本さんは正しいが、前に私が調べた結果では、下記のやうに明治三十四年が一番いい。これについては、後日調べたい。
明治三十三年 5/61=8%
明治三十四年 3/28=10%
明治三十五年 3/59=5%
明治三十六年 1/27=4%
明治三十七年 1/38=3%
明治三十八年 1/56=2%
明治三十九年 2/72=3%
明治四十年 1/53=2%
明治四十一年 -/61=1% (無いものは、今の二倍の歌があれば一つとした)
明治四十ニ年 2/63=3%
明治四十三年 -/16=3%
明治四十四年 -/22=2%
大正元年 -/24=2%
大正二年 -/15=3%
七月二十九日(金)
子規が亡くなった後に
闘争的性格を持つ左千夫は、野心も強く功名心も激しかった
これはどうか。根拠を示さずこんなことを云ってはいけない。根岸派が短歌界の中心はまだあとのことだ。左千夫は根岸派の発展に寄与したとするのが正しいのではないか。
左千夫は万葉集を二大別して
主張子即ち形式派之を人麻派と云ふべく、主意味即ち写実派之を憶良赤人派と云ふべく、更に詳に云へば形式派成功時代と写実派開発時代と云ふべし。
そして
短歌の写実は形式趣味の上に立つものなることを説いてゐる
さて三十七年以降
写実の問題と併行的に調子の問題が重視され始めてゐる。
そして三十八年頃から
半ば無意識の中にも次第に一元化されようとする傾向が見えてゐる。
さて四十年の日本新聞に
五月下旬より六月に掛けて左千夫の「田安宗武の歌と僧良寛の歌」が同紙上に連載せられたが、これは短歌欄の選者となつた左千夫が(中略)従来世間に認められなかつた良寛の歌の真価を初めて世に顯揚したものとしての意義も大である。
七月三十日(土)
晩年に左千夫と若手が不仲になったことを、後世ことさら大げさに書く人がゐる。山本さんの本は公平なので、後世についてさう感じた。
左千夫が飽くまでも認めなかった新傾向の歌とは如何なるものであるか
として、赤彦、茂吉、千堅、憲吉、文明の歌をそれぞれ五乃至七首挙げる。茂吉は六首のうち
しろがねの雪ふる山に人かよふほそほそとして路見ゆるかな
は悪くはない。千堅の七首全部も悪くない。茂吉自身が
「是等の新傾向の歌といふものは概して動揺してゐて、今から見れば随分変なものが多い。(中略)その中にあつて古泉千堅君のものは一番整つて居り、一番佳作が多く、(以下略)
或いは、茂吉の門流のほかに、アララギ派から批判された他派の末流が、左千夫一人に責任をかぶせて他の人たちの末流を味方にしようとしたのかも知れない。
私は歌論が嫌ひだから(この事実だけでも、私と左千夫は考へ方が違ふ)さらっと見た。山本さんは後世だから、後出しじゃんけんだ。そして根底に、左千夫の性格を原因にしてしまふ。
前に土屋文明が赤彦を評して
「世間的常識の点では一人前の人間はほとんど見あたらなかった当時のアララギ同人の中では、赤彦はたしかにどこへ出しても通る常識人であった」
。
そんななかで、左千夫だけを悪者にしてはいけない。左千夫と若い人たちの対立も、決定的な分裂ではなく
四十五年に千堅と茂吉氏との間にアララギ廃刊の議が起つて、此の二人が「(前略)従前からの熱心に似ず極めて無造作に賛成してしまつた」(中略)此の時は赤彦の反対で廃刊は取止めとなつたが、(中略)左千夫は単に作品及び歌論を時折掲載するといふ程度となつた。
七月三十一日(日)
落合直文は
今、新旧二派が合同し(中略)はじめて、善美なる歌も出來か、私は新派であるか、旧派であるかといふに、やゝ新派に、左袒して居るものです。されど、また、旧派もすてない(以下略)
朝香社はいろいろな人が集まったから、これはあり得る。
新派和歌が真に旧派のそれと区別せられる所以のものは、先づ第一に(中略)作品の根柢を自己の環状の上に置くことであつたであらう。(中略)鉄幹の新詩社及び子規の根岸短歌会も、旧派排撃の点に於てはもとより、その革新意見として主張する「自我の詩」と実事実情の「写生」とは、共にその根柢を(中略)自己感情の上に置くことによつて、明らかに新派和歌として共通するものを持ち(以下略)
このあと山本さんは面白いことを云ふ。
先づ社会主義的文学観よりすれば、これにも多少の異説はあるが、新詩社及び根岸派の対立を資本主義機構向上期に於ける進歩的自由性と反動的保守性との二つの立場に意義づけるか、或は両者を一応は同じく当時の資本主義の興隆期に於けるブルジョア的イデオロギーの繁栄と見做し、その上で子規の晩年の傾向を封建的イデオロギーに対する懐古的退嬰的な態度と断定するのであつて、即ち根岸派の意義は全面的に否定されるか、或は初期の革新精神のみを肯定して晩年の進歩性を認めぬのである。従つて子規の晩年を継承する左千夫その他の根岸派の歌人たちも、かうした観点からは封建的イデオロギーを墨守するものとして抹殺されて終ふのである。
まづ、歌は美しいかどうかで判断すべきで、進歩か反動かで二分はできない。次に、西洋化が進歩かどうかは未定だ。山本さんも
敍説の観念的・機械的社会観よりは到底文学の正当且つ全体的な把握は期すべくもない。
ただしこの程度の社会観から、子規の晩年の非進歩性は左千夫が原因とし、そして左千夫を一部の人たちが抹殺しようとした可能性はある。
両者を浪漫主義短歌と写実主義短歌との対立と見做す所説があり、これは一般史家の定説ともなつてゐるもので、(中略)此の場合も両者の対立を全面的に包括してゐるとは云ひ難いと思はれる。
細かく見ると
明星派の古今的・新古今的に対して、根岸派は万葉的とも云ひ得るのであるが、子規自身は飽くまで現実主義的で、尚古的でも擬古的でもなく、万葉に学んで万葉を出るといふ態度であつた。
そして
子規の和歌革新の精神は、主として左千夫の継承発展を通じて大正昭和の歌壇に現実的万葉調の見事な結実を齎したのであつて、その輝かしい史的意義こそは深く銘記されねばならぬものである。
さて
蛇足ながら、子規の眼が殆ど常に身辺日常的或は個人的なものに注がれてゐたことを、一部の史家は封建的イデオロギーと見做してゐるが、(中略)寧ろ思想としても進歩的なものであり(以下略)
封建的反動的保守的と、自由的進歩的革新的の対立と云ふ一元論が、私はベトナム戦争終了後に現れたと思ってゐるが、昭和十六年にあったとは望外の収穫だった。なぜなら今回は、子規と左千夫が新派かどうかを調べたのに。
私自身は、まづ既得権維持かどうかで分ける。次に西洋近代文明の弊害に対抗するかどうかで分けるから、右派と左派の区別が無くなる。この二次元論でなければ駄目だと考へる。
山本さんは一元論だから正しくないのだが
晩年に到達した子規の短歌観が万葉的・伝統的であつても、それが故に決して進歩性を失ふのではなくて(以下略)
ここで注目すべきは、子規の晩年だ。
七月三十一日(日)その二
「明星」に鉄幹は
「新派和歌と云ふ中にも、故人子規子の歌風を継承する擬古詩(棒線内略)を加へて並称することは我等の同ぜぬ所である。」と云つてゐる。(中略)さきの子規鉄幹不可並称説が根岸派側から唱道されたに対する一種の報復(以下略)
報復なので、これを以て子規派が新派ではないとは云へない。尤も佐佐木信綱も
詩歌は感情を云ひ顕すものであるに、殊更に耳遠い万葉集の古語をのみ用ゐるの弊を悟る時がくるであらう。
と批評した。子規も
万葉の言葉をつかひこなせて来たのはうれしいが、然しながら、万葉の歌人が新らしく造り出した詞を、直ちに其儘使ふなんて、・・・・・それでは、まるで泥棒だ。
子規は万葉歌人が造った詞をそのまま使ふのが泥棒だと云ったのであって、万葉の古語を使ふことが泥棒とは云ってない。子規は少し前で
しきりと万葉の詞をばかり使つてゐれば、それでいゝと思つてゐる。
とも云ってゐる。私も前に云ったが、定型にすることは一つの美しさだ。しかしもう一つ美しさが必要だ。万葉の詞を使ふのは一つの方法だが、あまり繰り返すと美しさが半減する。子規の云ふことも同じだ。
左千夫を最も継承したのは誰だらうか。山本さんは
歌人としての生涯を最もよく継承した歌人としては、斎藤茂吉氏を第一に挙げたい。千堅は(中略)当時の新進門下達が歌壇の新傾向を採入れて左千夫と猛烈な対立状態にあつた時にも(中略)新傾向の摂取の仕方も短歌の伝統性を心得て比較的に穏健中正を保つてゐた(以下略)。赤彦の場合も、左千夫の影響を多分に採入れ、且つ晩年の沈潜した歌風はその沈潜さに於て左千夫と近似してゐるが、(中略)左千夫より更に冷静なところがあつて、寧ろ子規のそれに近いものがあると思ふ。これに反して茂吉氏は、先づ性格に於て近代的な反面に、左千夫に近い万葉人的な強烈な積極的性格を持つて居り、従つて作歌態度及び歌風に於ては作者の主観が生動して声調の緊張した人麿的様式の点に、また常に流動し変化してゐる点に於ても共通性を持ち、次に歌論をよくして特に論争に長じ、(中略)また宗教的諦観を持ち、或は日本人としての国民感情の醇正さに於て、或は作歌以外の美術文学思想等への関心に於て等々、特に初期の頃りも大正の後半より昭和の現在にかけて、一層の親近さが加はつて来てゐる(以下略)
赤彦と茂吉と千樫それぞれが左千夫を継いで流れを増やす(終)
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