千七百九十二(うた) 吉原敏雄「概観短歌史」
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
八月一日(月)
吉原敏雄「概観短歌史」(昭和十七年)を、国会図書館オンラインで読んだ。各時代を細かく分けて解説する。江戸時代の末期は江戸第五期で、桂園派、北邊家など弱小派を四つ、自由派として、良寛、本居系万葉的自由派、その他を挙げる。
古事記日本書紀の時代から江戸末期までの弱小を含む各派なので、一派が数行から一ページ程度だ。良寛については
万葉的自由派良寛 (前略)彼は万葉を好んだ而し(中略)彼にとつて大事なものは学ではなくて、自然と人生とに介在する人間であつたのだ。その自らなる表現は万葉に近づく。
として二首を紹介する。
むらぎもの心たのしも春の日に鳥のむらがり遊ぶを見れば
月よみの光を待ちてかへりませ山路は栗のいがの多きに
よろづはと江戸の末まで時長く歌の変はりはしかし緩やか
八月二日(火)
明治前期は、桂園派、改良派、折衷派が出た。それらの華々しさとは別に
地味に万葉主義の実践に生きた系列があつた。
として丸山作楽を挙げる。
ひなぐもりうすひの坂をこえくれば朝霧たち道まよふがに
この作楽と交渉を続けその影響をうけた万葉歌人が天田愚庵だ。
うつくしき沙羅の木の花朝咲きてその夕には散りにけるかも
愚庵は新聞「日本」によつて正岡子規と相知つた。
明治中期は、折衷派の萩野、小中村と
同じ傾向を取つた落合直文は(中略)井上哲次郎等の過激なる短歌形式否定による改良を避けつつ、一方真淵派の歌とて景樹翁の歌とてよきもあれば悪しきもあるとてこの保守勢力に対しては改革の意志を示した。
井上哲次郎は新体詩派だから、保守のための改革派だったのだらう。このあと明星派が伸びて、反明星派も出てきた。そのやうな中で
丸山作楽・天田愚庵と系列をなす万葉主義短歌は正岡子規によつて受け継がれた。
八月三日(水)
明治後期は、「自然主義の行進」「浪漫派の分化」「生活派」、森鴎外の「統合の企画」。最後の「万葉的写生派根岸派」では
子規死後の根岸短歌会は三十六年機関誌「馬醉木」を出し(中略)新詩社と戦ったが、余り効果がなく、返つて新詩社側よりこの派を子規を継承する擬古詩なりとして新派として数えぬと斥けられてしまつた。
ここから始まり根岸派が短歌界の主流になるところまでが面白いのだが、それらを規定の事実として無視する人が多い。
左千夫は子規を継承したが之に主観的方向を与へて叫びの説をなした。(中略)之は大胆な是正であつて子規門下の賛否は一定しない。子規の客観描写を最も正しいと信じた節は反対して論争に迄及んだ。
私は左千夫の説に賛成。子規は旧派や明星への対抗のため写生を云ったが、本来は物象を見て感じた心の写生、つまり主観はある。
「根岸派の分裂」で
四十一年になつて馬酔木廃刊、新進の三井甲之に編輯をまかせて「アカネ」を出した。が左千夫が鴎外の観潮楼歌会に行く態度をなんじ、ここに二派分裂を生じて左千夫を中心に蕨眞の所より「アララギ」が出た。
左千夫の観潮楼歌会出席が分裂の原因と云ふのは初耳だが、あり得る話だ。
黒船が来てから後は世が変はり次から次へ歌また同じ
八月四日(木)
大正期では
アララギはその後四十二年(中略)島木赤彦の「比牟呂」と合して大きくなり、大正二年左千夫の歿するや、(中略)既に左千夫生前よりアララギ叢書として歌集を出版し始めて居たが、第一に赤彦・憲吉の「馬鈴薯の花」第二に茂吉の「赤光」を出し(中略)この集団への一般関心が俄かに高まつたのであつた。
アララギ集団への関心が高くなったのは左千夫死後だから、左千夫は貢献をしたのであり、野心ではない。関心が高くなった集団の中心になれば野心だが、さうではなかった。
斎藤茂吉は三十九年以来左千夫門下となり常に左千夫を助けて行動をして来た。左千夫も彼を評して理想派だと言つた如く、彼の歌は初から純粋な客観描写ではなかつた。左千夫によつて是正された根岸短歌会の方向、即ち叫的なもの、言はば価値判断を持つた客観描写とでも言ふべきものの方向は最もよく茂吉によつて継承された。彼は左千夫派として内外共によく戦つた。アララギが出づるや左千夫派の為に三井甲之を相手取つて論戦し、その他押の強さで相当社内で強気に振舞つたので先輩の反感をも得たが、遂に押切つた。彼は遂にその主観性を放棄し得ず寧ろそこに独自性を持たせて自然主義崩壊後の人気を集めたのであつた。
これはおそらく正しい。
かうした傾向を以て三派平行時代の一角を代表したのであつたが、白秋は(中略)歌より詩へ重心を移し、(中略)後は土岐善麿の率る生活派との対立が残されたのであつた。茂吉はその後善麿とも論争を展開した。が生活派はやがて口語歌と合流し(中略)定型歌壇より離脱(中略)かくて定型歌壇のリーダーシップはアララギの取る所となつたがその間茂吉は東洋画論の用語例に立脚して短歌写生の説を新たに立言した。彼自身も言ふ如く、之は子規以来の純粋客観を説く写生論の革命であり生を為す茂吉主義の写生説だ。それは左千夫の指示した方向を更に理論づけたものであつたのだ。
それに対し
この茂吉の写生説に対しては方々より批判が加へられ、旧根岸短歌会系統はいよいよ子規を離れて邪道に入つたものとして考へた。潮音で太田水穂がこの写生説を評したのに端を発し、(中略)その他にも誰彼と論をなしたが茂吉の説をくつがへすべくもなかつた。
昭和まで吉原さんの短歌史は続くも興味ここで完了(終)
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