千七百六十二(普通のうた、和語のうた) 短歌研究(1934年10月号)より菊池知勇「乙女歌人潮みどり」
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
六月十七日(金)
「短歌研究」誌の昭和九(1934)年十月号に菊池知勇「乙女歌人潮みどり」が載る。
潮みどりさんのやうな有名な女流歌人を、今更無名歌人の列に加へて評伝するのはどういふものかと思はれるが、専ら名を売ってゐる歌人に対して、その名実に伴はないものを無名歌人とするならば、或は最もふさはしいかもしれないと思ひながら、ともかくもペンをとることにした。

の前文で始まる。
若山牧水が喜志子夫人の病後静養を目的に、三浦半島の北下村といふさびしい漁村の侘び住居をしてゐた(以下略)。

そして
ここにやつて来てくれたのは、喜志子夫人の実妹、当時やつと二十歳になつたか、ならないかの桐子さんであつた。

太田家は広丘村の庄屋だった。喜志子は妹より先に病気になった。これらは初耳だ。
大正六年二月、牧水はその一統を率ゐて第三期「創作」を復活。

桐子は信州の生家から投稿し
「潮みどりの」の名は一とびに歌壇的の何なつてしまつた。

その理由は
自由自在に歌の領分を拡げ、自分の心のおもむくまゝに歌つてゐる。万葉を宗とし、写生だ、実相観入だと八ヶ間敷理くつで固めて、息もろく〱(二文字同字記号)つかないやうな歌壇に、これはまた何といふねたましい姿であつたらう。

八ヶ間敷は、やかましき、と読む。
八ヶ間敷散文にての歌論は無視し韻文歌で勝負を

そして大正六年から昭和二年までの歌が四十一首載る。まづ大正九年までのあと
この頃、牧水は、喜志子夫人の健康のために、再び東京を離れて沼津に永住の地をもとめ、出たり出なかつたりしてゐた「創作」を長谷川夫妻に委ねたので、彼女は夫銀作君を励ましながら、刻苦経営、よく「創作」を以前に劣らぬ盛大にかへさせたのであるが、その頃から、しばしば病魔に襲はれ、ことに、例の大震災に焼け出されて苦しんだりして、以後、長谷川君が東京柏木に移るやうになつて、病気は漸く重く(以下略)

菊池さんの選歌のうち、私も選ぶ歌は大正六年では六首のうち私も前に選んだ
すがすがし朝山みると降り立てば野には澄み入るよしきりの声
をとめ子のひとり居るべき野ならずと夕暮の色に負はれてかへる

大正七年は十三首で無し。大正八年も十三首で無し。大正九年は私がたくさん選んだのに、菊池さんは二首のみで私とは異なる。大正十年は一首のみで私と異なる。大正十一年は無しで、私は四首選んだ。潮みどりが優れた歌人では一致しても、歌感は異なるやうだ。これ以降は病が重くなるので、菊池さんも大正十二年と十四年は一首づつ、昭和二年は四首に留まる。そのうち昭和二年の
枕辺の電気スタンド消したればにはかに涼しこほろぎのこゑ

この歌は、私も佳作だと思ふ。
暗闇で人を導く虫のこゑ亡くなる後も善きへ導く
(終)

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