千七百六十(和語のうた) 「作歌入門」を読んで(「潮みどり歌集」評)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
六月十日(金)
最初「千七百六十(うた) 読んで嫌悪した二冊(「土佐日記」、茂吉詩集「赤光」)」にする筈で、作った題がこれだ。だが批判をして、それが文化の発展に寄与するなど、世の中の為になるならよい。批判を目的とする批判は気が進まない。そこで国会図書館デジタル化資料の「作歌入門」(1928年、立命館大学出版部)から「潮みどり歌集」評を紹介したい。
方々から寄附して貰つた歌集がかなりたまつてゐる。これを一冊のこらず合評して行くつもりでゐるが(中略)潮みどりさんは去年の十月十三日に三十一歳で世を去られた惜しい女流歌人で(以下略)

で始まる。
朝ぐもり里の雀はことごとく一樹によれり雪か降るらむ

について八人の参加者が意見を述べる。抜粋し、同感の部分を赤色にすると
【清之】平坦な歌であるけれ共、将来伸びてゆく歌の調子はこの歌にすでに窺はふ事ができる。唯だこの歌の調子としては第一句に「朝ぐもり」を持つて来たのをどうかと思ふ。
【喜一】第一句を疑問とされた様であるが、それは序詞として其処に置かれたものと思ふから表現上疑問を持たない、そして第四句に於て、引締め、且つそれに次で「雪か降るらむ」とうたつた調子はうまいものだ。
【保夫】いゝ歌と言ふ事に就ては別に異論がない。この歌の「里の雀はことごとく一樹によれり」と言ふ生活活動の後を受けて「雪か降るらむ」と言ふ未来を「朝ぐもり」に指示して居る為に、非常に昏い感銘を受けるが、作者の美しい感情は第二句から第四句までのあざやかな活動体の表現で、構成法的に救はれて居ると思ふ。
【八重子】「里の雀はことごとく」と言ふと、里の雀が皆一樹に寄つてしまつた様に思へます。この「里の雀」と言ふ概念的な言葉がいけないと思ひます。

一樹は、一本の木ではなく、あちこちにある一本の木であらう。
【月甫】「朝ぐもり」「雀」「一樹によれり雪か降るらむ」と是丈竝べて見た丈で、それを連想して一つの空気を描き出して見るだけで作者の心持の洗練されたものに充分私はふれる事が出来る。そこでこの他の語(中略)が、一首にどれ丈の力があると言ふ事を考へて見る。さうするとそれは単に字を埋め合せて(中略)この一首に引締りを鈍らせて居る。よし「ことごとく」(中略)は、燕がことごとく集つたと言ふ丈の意味のものでなく(中略)生きたものではない。空気を引締損じて居る。

里の雀がことごとく一樹に寄るほど曇った。私は、ことごとくが活きたと思ふ。
【鐵之助】氏の名はとうに聞いて居る。(中略)茲に哀悼の意を表しておきます。さてこの歌ですが、間伸びがして居る。それは二句三句が禍ひして居ると思ひます。
【武太郎】幼児からよく見、よく味はつて来たなつかしい情景である。(中略)語句の不満足は言はず、僕の好きな歌である。
【蝶介】この歌の眼目は第五句にある。作者の第一に感じた気持ちも「雪か降るらむ」丈にあつたのだらう。つまり「雪か降るらむ」丈を感じて、あとは概念丈で作り上げた歌であらう。(中略)「里の雀」の里もをかしいし「ことごとく一樹によれり」の「ことごとく」もをかしい。この「一樹」は(中略)裸木を見たのでもなく、葉のこんもりした木を見たのでもない。

これも一樹を、あちこちにある一本の木と見るべきだ。
さはびとが集まり話すこの歌を私も前は佳きを見逃す


六月十一日(土)
次の歌は
なつかしや瀬の音もきこゆ静こゝろ窓ちかくわがすわれるほどに

この歌について
【月甫】「客人のうたへる」第二首である。この歌は僕は好だ。(中略)「わがすわれるほどに」の句には、静やかに(中略)座つた作者(中略)渓の音(中略)佳作と言ふも過言ではあるまい。(中略)S女史たちのやうな「われ」の強い女の歌人にはこの歌はいゝ教訓にでもならうではないか。

S女史が誰なのか、昭和三年のことなので不明だ。続いて
【八重子】三句の「静こゝろ」が少し邪魔の感じが致しました。(中略)でも好きな歌です。殊に下句が・・・・・。
【蝶介】今の八重子さんの評は非常にいゝと思ひます。「なつかしや」と(中略)こゝろの踊ってゐる姿がこの歌のどの部分にも顫えてゐるのに「静こゝろ」といふ殊更第三者めいた句を挿んではいけない。この歌の心が、即ち「静こゝろ」である。(中略)中途で説明しては腰が折れる。この歌はいゝ歌であるが、そのことが玉に瑕である。
【月甫】「静こゝろ」であるが故に「すわれるほどに」と詠ふ事が生きて来る事であると思ふ。(中略)窓近く吾が座つたと言つたのではなく「すわれるほどに」と言つた事が本当に生きて来るのでないでせうか。
【清之】誰でも作歌の初期に陥る(中略)第一句に他の句より強い語句を使用する弊がある。(中略)「なつかしや」と言ふ強い語句を据えてゐるから、自然に第三句以下に取りつけた様な語句を置いたのではないか。さう云ふ意味から「静こゝろ」もたしかに無駄だと思ふ。
【武太郎】にほやかな感じのする歌で、彼女の持つこゝろの美しさ素直さやさしさが遺憾ないまでに出てゐる。私はこの歌を読んで、何とも言はれないいゝ気になりました。
【保夫】「静こゝろ」に就ては、作者が「なつかしや」と言ふ現実肯定の重複的な説明ではないかと思ふ。(中略)この歌は前の歌より一層僕は好きだ。
【鐵之助】一気呵勢に読んで好い歌と思ふ。「なつかしや」と第一句におどろきの声をあげてゐるが、下句に対してちつとも耳ざはりにならない。第三句の「静こゝろ」は外に何とかならないかと私も思ふ。

私も「静こゝろ」は変へるべきだと思ふが、その理由は語感が悪い。「静こゝろ」は過去に使用例はあるものの、近代ではみどりの創作に近い。
静こゝろ静かのほかになつかしいうれしい心窓の近くに


六月十三日(月)
次は
樋(とひ)あふれて落ちくだる春の夜の雨に窓辺しとゞにうるほひにけり

これについて
【武太郎】「遠人に寄する」の中の第七番目です。一句の字余りに二句も大分引掛かるところがあり、尚上句と下句ともぴつたりしない非もありますが、春の雨の(中略)わびしさに遠くゐる人に思をよせて居るらしい気分がよく出てゐます。

まづ「あ、い、う、お」を含字余りは破調ではない原理を、みどりは途中から使用し始めた。牧水の一門は朗詠を行ったので、その影響だらう。発病後はまた破調が多くなる。
【蝶介】第一句の(中略)樋に、何の故を以て「とひ」と仮名をつけたのであらう。是は当然「ひ」でなければいけない。第二句の「落ちくだる」(中略)それから「しとゞ」の表はれを見ると、ずいぶんひどい雨を思ふ。それでは「うるほひ」のほうが弱すぎた(以下略)
【清之】「樋あふれて落ちくだる」是は要らない。春の夜の雨に窓のほとりがぬれてゐるそれ丈で歌になりはしないか。

激しい雨を表すから、私は要ると思ふ。
【鐵之助】二句から三句へかけてぎこちないと思ふ。(中略)下句も上句の重いのに比較して是では弱過る。
【保夫】作者が苦心して居ると言ふ事は、作の上にはつきり表はれてゐるが(中略)題材に作者が持つてゐるところの所謂歌ごゝろに禍されて、無理に一首まとめた様な感じがする。然しそれに作者の苦悩時代が窺はれる。
【八重子】作者が歌に対して苦しみ出した頃の歌であるとすれば仕方がありませんけれ共、上句が素直でありません。
【月甫】「樋あふれてこぼるゝ春の夜の雨に」とでもしたらどうだらう。(中略)「「樋あふれて」の流動と五句の「うるほひにけり」の持つ沈静との間に生れる心持がこの一首の生命である。若しそこにないとするならば、この歌は単なる原因結果の説明に終はるまでゞはないか。

「樋(とひ)あふれ滝にて落ちる春の夜に」はどうだらう。「雨」は読者に想像させる。
【喜一】第一句第二句は第三句「夜の雨」に対する冗漫なる説明になつてゐる。(中略)「しとゞ」「うるほひ」の用法にも同感できない。然し作者はこの表現におそらく苦しまれたのであらう。

大正八年の銀作との結婚前だから、歌に対して苦しみ出したのではなく、心が弾み過ぎたか。

六月十四日(火)
次の
わが胸の時に哀しく曇るはあれ月見草みれば匂ふなりけり

私は、どこがよいか全く分からない。ところが集まった人たちは、難点を指摘する人でも、最後は褒める。全面に褒める人も多いから、私との歌感の相違はどこだらうか。
【喜一】大正十年の「さみだれ」の中の第六首目である。(中略)嫌味のない歌ではあるが、第二句「時に哀しく」の時とか「曇るはあれ」の表現は、感心できない。「時」は「折々」に言ふ意味で説明的であり、(中略)「曇るはあれ」のぎこちなさと相俟つて、作者の表現上の若心が茲に窺はれる。下句「月見草みれば匂ふなりけり」は、前句の苦しみから脱れてあつさりした表現である。
【清之】この「時に哀しく曇る」は曖昧ではないかと思ふ。然しこの一首は清新な表現法である。殊に下句「月見草みれば匂ふなりけり」には作者に対する腕の冴えを窺ふ事が出来る。
【月甫】僕はこの歌は別に語調上に於ては難点は見ない様です。(中略)月見草を見ればなぐさまるゝと進むのでもあらうところを、匂ひに引入れた点僕は注目したい。 【保夫】本格的な歌らしい歌であると思ふ。
【鐵之助】この歌はいゝ。素敵にいゝ。
【八重子】「曇るはあれ」は大分苦心した様ですが、一寸気になります。が、この為に「わが胸」にも「月見草」にもいゝ結果をもたらせてゐます。
【蝶介】この歌は是迄の中で一番好きな歌である。(中略)上句はかなり非難の多い新しさではある。然し、そのためまた可也複雑な気持も表はれてゐる。是は勿論月見草を見なくてもいゝ。観念の歌として充分胸にふれると思ふ。

講評を読み、二つ感じた。一つ目は、出席した皆さんは、心の微妙な動きに注目する。私は景色や感動など大きな動きに注目する。
二つ目に、普段結社などで他人の歌を批評すると、新しい表現に注目するやうになる。私の歌は口語だから、すべて新しい。だから新しいものには注目しない。
参加者と私で、歌感が異なる理由がわかり良かった。

六月十六日(木)
次は
庭垣の間(ひま)よりみればうちつゞく小田にひろ〲(二文字同じ記号に濁点)水張られたり

「病みて歌へる」(二)。「いゝ歌と思ひますが」との司会に
【鐵之助】成程是はいゝ歌ですね。第一にこの歌の格と張りと、そして(中略)感傷に落ちてゐないことに敬服します。
【武太郎】語句暢達自らなる言葉を持つてして、自らなる高邁な品格を供へ(以下略)

このあと三人が異口同音に褒めたあと
【喜一】病中の有無に不拘いゝ歌と思ふ。第一、二句は説明的に思はれるかは知れないが、是は偶々調子軽く出たのであらう。(中略)所謂本格的と言ふ歌であらう。第三句が前二句を受けて、第四句五句へかゝる調子は、よく相手に迫る力を持つて居る様に思はれる。
【月甫】派手ではない。漏らしても居ない。(中略)ふれるものが生きて(中略)蓋し佳作である。
【蝶介】「庭垣」と言ふ事を非常重く見たいと思ふ。(中略)病を得ての可也おとろへて(中略)過ぎ行く時の推移に可也悲しみを抱いて(中略)「あゝ、もうあの田にも水が張られてある」と(中略)写生でしかも深い象徴の味ではないか。
(中略)皆が熱心に研究して行くと時間がどん〲(二文字同じ記号に濁点)たつて(中略)二時すぎからはじめてまだ五首位しか合評しないのにもう十時近くになつてしまつた。まだこれからいゝ歌があるのだけれど今日はこれで、この名歌で打止とすることにしやう。

今回の歌がどんなものか知る前に、昨日思ったことがある。私は歌詠み人の一生で最高傑作と呼ばれるものしか過去には目にしなかった。二年ほど前からいろいろな人の歌集を読むやうになったが、合ふのは5%などと云って他は切り捨ててしまふ。
それに対し、結社に所属する人は多くの作品から佳作を選ぶ。ここに私と、結社に所属する人たちとの、大きな相違がある。
今回の歌でも、それはひしひしと感じた。私が単独なら、この歌は見逃してしまふ。間を「ひま」と読むのと、小田と云ふ単語に、拒絶反応を起こしてしまふ。しかし合評が八時間で五首と聞いて安心した。最初の二人くらいが意見を述べれば、私も加はることができて、別の意見を述べることもできるだらう。
さは人の目で読み口で話合ふ歌の良し悪し二つが分かる
(終)

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